最初の「ドラゴンボールの魅力」では
1.DBが人を復活させることができるために、人の死が終わりではなく、むしろ復活させようとする新たな物語の始まりになること
2.目の前ですぐに魔法で復活させるようなことはできないため、DB集めの間その不在(重み)も同時に感じられること
3.メインキャラでさえ(一度なら)容易に殺せることが、物語の幅を生み出し、緊張感と躍動感をもたらした
と述べた。その上で次の「ドラゴンボールの転換点」では、フリーザ編においてその構造から逸脱する出来事、すなわちクリリンの二度目の死が生じた悟空が初めて「ブチ切れ」たことに言及した。
今回の記事を含め三つの動画を転載したが、これらを見れば悟空の怒りが極めて大きいものであるを子細に描こうとしていたことが如実にわかるだろう。なるほどクリリンを殺したタンバリン戦では悟空が「ぶっ殺す」と口にし、彼もこのように怒るものかはと思ったものだが、フリーザに対する怒りはその比ではなく、過剰であるとさえ言える(キレてパワーが増大して圧倒するだけならともかく、相手の手を掴んで静かに怒りを口にしたり、何度も感情的になるシーンを入れたり、往復ビンタをして徒に相手を痛めつける必要性はないはずだ)。
正直、あそこまで悟空がキレることを予想した人は少なかったのではないか?これは何も印象論ではない。餃子・天津飯・ピッコロを殺したナッパにさえキレることもなく、むしろ力の差を見せつけて諦めさせよう(地球から立ち去らせよう)としただけだった。危うくクリリンたちがやられそうになったために少し本気を出して界王拳で撃退したが、それでも止めを刺すわけでもなく、それはベジータに対しても同じだった(冷静に考えれば、ベジータを生かして返してのは物語展開上役に立つからというメタ的視点を除けば、「優しさ」などを通り越して意味不明以外の何物でもない。DBで死者たちが復活しうるという点でかろうじて納得することが可能な行為だったと言えるだろう)。
このような悟空の徹底した「甘さ」はナメック星編でも如何なく発揮され、キュイ・ドドリア・ザーボンを葬り去っていったベジータに対し、悟空は一人も殺していない(彼によって虫の息となったリクーム・バータなどはベジータが代わりに止めを刺した)。かてて加えて、フリーザはまるで虫を殺すかのように虐殺を行っていたし、いわゆるZ戦士とフリーザとの力の差は圧倒的だった。だから、ナッパ戦でZ戦士たちが次々と命を落としたことを不思議に思わないように、ベジータでさえいとも簡単に殺したフリーザがクリリンを殺したとしても驚く要素など全くないのである。
以上見てみると、クリリンの死は確かに悲劇であるが、読者感覚としては悟空がここで「怒りに振り回される」という形容が適切なほど感情的になるのはやや唐突な感が否めなかったのではないか。
とすれば逆にこう考えてはどうだろう?悟空をこれほど感情的にさせることによって、作者はDBを駆動してきたドラマツルギーの根幹が破壊されたことを明確に示そうとしたのではないか、と。思えば、ナメック星に来たのはフリーザたちを倒すためではなく、DBを復活させるためであった。その目的は見事に達成され、ピッコロ&神はポルンガによって生き返り、地球のドラゴンボールも甦った。これはすなわちベジータに殺されたZ戦士だけでなく、フリーザに殺された者たちの復活も可能になったことを意味する(言い換えれば、ここでDBの円環構造も再び甦るはずだった)。しかしそこまで描いた上で、クリリンは死んだのである。
二回死んだ者は生き返らせることができない。つまりクリリンは、(自分から生き返りを拒否した悟空の育ての父である孫悟飯を除けば)初めてドラゴンボールで救うことのできない存在となった。このような、今まで物語を駆動してきたDBシステムからこぼれ落ちた存在が出てきた(ルールからの逸脱が生じた)ことで、ベジータでさえ生かした悟空が初めて「キレる」、というこれまたルールからの逸脱が生じた(これは余談だが、悟飯がキレるととんでもない戦闘力を発揮する様が度々描写されてきたが、悟空がそういう力を発揮するシーンは不思議なほどなかった。その意味で悟空の怒りは、その特異性を読者に意識はさせながらも、ご都合主義的とは思わせない説得力も同時にあったと言える)。
このような二重の逸脱を最後に描いたという点において、フリーザ編が特異な内容であるのは論をまたない。であればこそやはり、フリーザ編は単にそれ自体の出来がすばらしいといった評価や、人造人間編がレッドリボン軍という埃をかぶったガジェットを持ち出したこと(=どう見ても付け足した感が否めない)を横に置いても、DBという存在によって駆動されてきたこの物語の幕引きとしてこの上なく相応しいものであったと言えるのではないだろうか。
これに関して、たとえばGTの最後が天下一武道会で終わることを原点回帰の優れた演出と見る向きもあるようだが、私は全くそうは思わない。先に述べたDBシステムの持つ円環構造が壊れたまま物語を続ける以上、全く新しいゲームを始めるか、それともどんどん強い敵は出てくるが何度でも生き返り可能な弛緩した世界を描くしかない。そしてその終焉(=最終解)が天下一武道会であったというのは、結局フリーザ編より後のDBが何ら新機軸を打ち出すことができなかったことを何よりの証左だと考えるからだ。
DBこそ復活し一見それまでのシステムが元通りになったが、しかし悟空とクリリンという物語の根幹にいた二人だけが不在である、という形でかえってその死=不可逆性が意識されて終わる(これについては、「All Need Is Kill」で描かれるような、繰り返す世界が描かれるからこそ不可逆な死がより一層際立つといった例を思い起こすといいだろう)・・・それがDBにとって最高の幕引きだったのではないかと思うのだがどうだろうか?
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