2011/09/23
<ソウル>
クロナがいる版は歩く速度がかわらない。ペース合わせてる自分の弱さを認めるマカとアシュラの対比。やせ我慢や盲目が勇気ではない。魂99個取ってるのに一つ星なのはなぜ?オムニバスかつ複数視点なのはあるにしても、ちょっと弱さの話は浮いてるべ。ナイグス先生の奴隷になりたい。あのハスキーボイスでごろにゃん。こういうのゾーンニング言いますね、マケなさい。俺はエクスカリバーを手駒の一つとみなし、しおみは独立した単体の存在とみなす。
<終末>
震災の後に掲載したのは終末の過ごし方。あえて皮肉を込めた言い方をするなら、その批判に立ち向かうのが当然であるというアルマゲドン的思考への頽落を見たのであった。なぜ暴徒が風景としてしか描かれないのか?情報に耳を塞いでる姿を見ていると、この作品を思い出す。あれは情報さえも限定された極限状況ゆえの同情あり?しかしこちらは喜劇として。今の私たちの縮図(私たちの方がダメなのは言うまでもない)。特定の基盤がなければ持続できないものと気付いているのか?もはやあの作品を嗤うことなどできない。
<終末2>
非日常の中でありきたりの関係(日常)が輝いて見え始める。もっとも、カタストロフが見えないがゆえにそういう実感が持ちにくいという見方もある。そこは状況が見えたら立ち向かい方に意識が行ってしまうこと、何もわからないという閉塞感・絶望感の演出とのバランスが難しい。春休みに逃げる、逃げないの選択(会社早閉有時間ツイッター)。俺はあえて逃げない。それはよろしい。個々人の自由だ。しかし逃げる人々を批判するのは一体どういう了見なのか?その批判が支持されるのはどういうわけなのか?結果オーライにすぎん。そのファナティックな様子を見て、戦前と同じだと思った。
<終末3>
「行動しようよ」とは何なのか?震災の例で言うなら、原発のとこに行って何かやるのか?それとも政府に対して暴動でも起こす?政府は頑張ってるから…大事なのって「頑張ること」なの?もちろんこれは皮肉を込めた発言だが、今みたいな話ができるのも、ある程度の情報があるからだ。震災時、現地では「とにかく情報がほしい」という声が聞かれた。終末では、それがずっと機能していない。そんな状況で何をどう行動するの?情報があってさえ耳を塞いでしまう状況。行動しないのが正しいと言ってるのではない。そのような見解に短絡さ、ナイーブさを見ているのだ。
<終末4>
人によっては、私が終末を称揚する理由を、私のエンターテイメント嫌いに帰するかもしれない。しかしそれは誤りである。もし私が嫌うものがあるとすれば、それはエンターテイメントしか受け入れられない人間(の閉塞した想像力)であって、エンターテイメントそのものではない(ここで言うエンターテイメントとは、「視聴者の価値観を侵食しない作品」程度のもの)。私は中華料理は嫌いなので受け入れられない、と言うのであれば納得できる。私がしばしば首を傾げるのは、不快の意志が表明される時、そこに理由が付されないことである。ゆえに終末の場合、アルマゲドン的視点への埋没を疑うわけである
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