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VR(アバター/Vtuber)が広がる必然性:技術革新と生身の人間との交渉からの退却

2020-09-11 12:28:09 | Vtuber関連

Vtuberの記事をいくつか書いたところで、他の話題にも広げていきたい。

 

以前私は、認知科学やAIの発達と並行して生身の人間への期待値が下がることで、「AIが『不完全な神』であれ、他者という『ノイズ』を嫌う者はそこにコミットする」と述べたことがある。AIの可能性について語られる際、シンギュラリティも含めあたかも「神の誕生」であるかのように期待・恐怖される言辞が見られるが、AIの定義を含め事はそう単純ではないという批判も多い。そしてそれは、全くのところ妥当だと私は考えている(cf.『AI原論』を読んで」)。

 

しかしながら、「AIに様々な限界がある=結局これからも生身の人間同士の関係性・接触に優位性がある状況は変わらない」と考えるのであれば、それはあまりにも世界の変化に対して無理解というものだろう。

 

そもそも、今すでにネットを通じて広く世界の(=生身ではない)人間と繋がる状況は当たり前になっているわけだが、昨今VR技術の発達などにより、それはさらに加速している。加えて、アメリカが最もわかりやすいが、社会的分断が加速して、近代の「人間を特別視しつつ、その権利や平等性を普遍的に重視する」理念・建前が崩れつつある(念のため言っておくと、今述べたことが近代に現実として達成されていたわけでは必ずしもないのだが、それが理念や建前としても崩壊しつつある点が重要なのだ)。

 

そしてこのような社会的分断=人間への期待値低下という傾向により、コントロール不可能な生身の他者よりも、コントロール可能なAIやオルタナティブな現実(?)の方にコミットする人間は今後ますます増えていくであろう(そもそも、「キャラ的人間関係」という言葉に象徴されるように、対象によってノイズを排除したキャラを使い分けているのだとすれば、生身の人間を相手にしていようがネット空間と何が違うのか、ということも言える。なお、今述べたことは「近代的普遍主義の終焉」なのだが、これが全面化しているわけではないのが重要であり、それと並行して多様性の称揚やポリコレ重視の傾向も同時に強まってきているわけで、これもまたこれから分断が加速する要因となっていくであろう)。

 

すると、近代的な価値観に基づき生身の人間との対話(いわゆる「熟義」)を重視する人間とそれより都合のよい別の存在を重視する人間との間でさらに分断が進み、近代民主主義社会はいよいよ不可能性を増してくるのではないか、と私は考えている(ここにはポスト資本主義も関連してくる可能性が高いが、それは別の機会に)。

 

これは別に誇大妄想でも何でもない。すでに現状でさえ、ネットではAIのフィルタリング機能や検索機能もあって、自分の都合のよい情報しか見ようとしない人間は(どこまで意識的かは別にしても)加速的に増え、意見の違う存在に対してはあたかも「人」ですらあるような発言を繰り返す現象が観察されるようになっている。そこには近代社会が期待した熟義は申し訳程度にしか残っておらず、「サイバーカスケード」と呼ばれる、あたかも牢獄の中で自分の正しさを叫び続けるような様が現出しているのである。

 

かかる状態を踏まえれば、(ノイズ混じりの複雑な)現実をさらに都合よく改変・提示できるツールが発達してきたら、多くの人がそこに飛びついてさらに現実社会の分断が加速すると想定するのは、むしろ自然なことではないだろうか(ちなみに、こういう現状認識を元にしつつ近代への批判をセットで社会を「変革」しようとする発想が加速主義であり、その提唱者たちは多くがトランプ支持者でもあるとされる)。

 

・・・とまあ大上段に未来予想を述べたところで、今の日本ではどんな現象が見られるかを提示しておきたい。

 

以前の記事では女体化と「バ美肉」に関連して魔王マグロナを取り上げたが、彼女(?)と双璧をなす存在として「兎鞠まり」がいる。

 

 

 

すでにチャンネル登録者数は10万に到達しようとしているが、活動は2年前からとそれなりに長く、地道な活動が実を結んできている印象だ。

 

ネット上で女性のフリをすることを昔から「ネカマ」と呼んできたが、そこではせいぜい文章・文体による偽装でしかなかった。しかし今や、VRや音声変換ソフトが発達し、視覚的・聴覚的に「女性としか思えない」存在を作り出すことが容易になってきている好例と言えよう(これは昨今突然始まった現象でないことは『ストップひばりくん!』「沙耶の唄」といった作品への反応を見れば容易に理解されるのであるが[パノプティコンによる規律訓練型教育によってインストールされた「正常」が、感覚のハッキングによっていかに容易に相対化・破砕されうるか]、詳細はまた別の機会に述べたい。なお、このテーマは「嘲笑の淵源:極限状況、日常性、共感」と深く関わっている)。

 

もちろん、このVtuberを見ればわかることだが、そう相手に錯覚させるには、言動や振る舞いのレベルでも女性性を身に着ける訓練(これはジェンダー的な話だ)が必要なこともまた、よく理解されることだろう(つまり感覚だけでハックが完結するわけではない)。しかしながら、相手の五感をハックすることが技術的に可能になってきている今日、現実の自分と別の存在になる(生み出す)ことも、他者のそれを消費することも、ハードルはどんどん下がってきているのである。これは抑圧に苦しむ人々にとっては福音となるだろうし、抑圧がそこまでない人にとっても単純に楽しめるものの数が増えるというメリットがあると言える(この点は別の機会に述べたい)。

 

そこからもう少し話を進めると次のようになる。

 

 

いわゆるVR風俗だが、ここで注意を喚起したいのは、「ドラゴン」や「スライム」という単語であり、もはや人間ですらない。VRという形で身体性を離れられるからこそ、こういった「解放」・「快楽」も可能なのである。

 

一方で、生身の人間との関係性は如何?

 

 

まず先に断っておきたいが、他者との共生において、こういった交渉事は必要不可欠である。しかしながら、価値観が多様化して何が不快と思われ、何が拒絶されるのかが判別困難となり、交渉の必要性も難易度も上がった状態においては、始めからノイズが排除された「生身ではない存在」の方が「楽」であるのもまた真であると言えよう(『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』などを参照)。

 

もちろん、そういうノイズ混じりの他者とのやり取りをこそ楽しむ人間もいるわけで、ここにも分断が存在するわけだが、そうしたコミュニケーションのあり方に価値を感じられないのならば(そしてしばしば複雑な現実に向き合うことを重視すべきと発言してきた身としては、大勢はそれを感じない方向に向かっている)、生身の人間との交渉から退却するのは、極めて必然的な現象と言えるのではないだろうか。


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