前回に引き続き、フッゲライの内部施設を色々と見て回る。
つつましやかで歴史を刻んだ家具を見ると、18~19世紀あたりにタイムスリップしたような感覚になる。
休憩スペースはこんな感じ。それなりに訪問者は多く、若年層グループからお年寄りまで幅広い層が来ていた印象だが、やや年齢が上の人が多いかな。
防空壕が見学施設として開放されているらしいので行ってみる。Museumなので当然というか第二次大戦中のものが様々展示されているだが、その中で空襲の映像が流れているのを見て、思わずハッとなった。
アウクスブルクは、大規模な軍事施設があったこともあり10回ほどの空襲に遭っている。そしてフッゲライもまたその被害を受け、戦後は他国により支援を受けて復興したのであった。アウクスブルク駅を降り立った時の違和感、すなわち町並が(歴史の割に)妙に新しくてどこか「寒々しい」印象を受けたのも、これが原因ではないか、と(正直「寒々しい」は語感的に当時の印象を上手く表現できていないと思うが、強いて他の言葉にすれば「町に受け入れられていない感じ」とでも言おうか)。それと同時に、自分の感想があまりに無責任なものだったことを認識して愕然とした。
誤解を恐れずに言えば、観光客とはそもそも「無責任」な存在である。というより、当事者ではない以上そうであるしかない(例えばの話、都会に住む人が田舎を訪れると、その自然に感動して田舎暮らしもいいなと思ったりするが、それは都会にない不便さや人間関係の窮屈さなどを無視した無責任な憧憬でしかない)。
しかしながら、ドレスデンの写真などでわかる先の大戦におけるドイツの惨状、また関東大震災と大規模な空襲で大きく町並が変容した東京、地震や津波で甚大な被害を受けた東北、そして二度にわたる大地震を経験した我が故郷の熊本・・・などと自分の知識の中にはアウクスブルクの背景を理解する前提は十分揃っていたにもかかわらず、ハイデルベルクやテュービンゲンのようにアウクスブルクの美しい風景を堪能しよう、とだけ考えその来歴に思いを致そうともしなかった(違和感の萌芽に真摯に向き合おうとしなかった)ことに、我がことながら衝撃を受けたのである。
もちろん、アウクスブルクがそのような悲劇を背負っていると認識したからとて、私がこの町の支援のために骨をうずめて何かをするというわけではない。その意味ではやはり「無責任」な存在のままだろう。だが、今回の経験をもとに、改めて空襲をはじめとした戦争被害、そして戦争と福祉(復興)といったことについて、よくよく調べてみたいと思った次第である。
そのような考えを胸にしつつ、フッゲライを後にした。
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