ハロハロ~んタカムラです。姉さんに協力してもらいながら今日も減量に励んでいます・・・すいません嘘です。実は最近姉には何も感じなくなってきて・・・メガネっ子の弟がむしろよきパートナーになってくれてます。まあそっちに偏るのも何なんで、本当はランディみたいにいつでもスイッチできるようになりたいものですが。
とまあそれはさておき・・・今回はこのブログで何度か引用したねとすたシリアスを紹介します。まあその1についてはネトゲ廃人の「普通さ」や「空気」の生成過程などに関連してリンクを貼ったことがあるので、ここではその2の方を取り上げようとおもいます。ただ、なんや小難しい話が展開されるんかいなと思う人もいるかもしれませんが、「ポルノ映画の題名はどうやってつけられるか?」など話そのものが基本的におもしろい(笑える)ので、肩の力を抜いて楽しんでもらうといいんじゃないかと思います。とはいえ、様々なフック(この話も出てきますが)として十分に活用できるので、まあちょっと時間を使って見てくださいな。また、前篇・中篇・後篇でそれぞれ40分強かかるので、一応いくつかの話題をピックアップしました。もし興味があればそこだけ部分的に見てもおもしろいかと。なお、各項目に感想めいたことが書いてありますが、結構長いので動画を見てから読むことをおすすめします。
〇サブカルチャー⇒新しい知の動きとしての理解(前篇1)
『動物化するポストモダン』は、「作品の形式やその受容のされ方が時代性とリンクしている」という話だったはずなのに、単なるオタク研究として受け取られた・・・とかつて東浩紀が嘆いていた(とはいえ、作品の取り上げ方はいささか恣意的な部分があるように思われる。たとえばYU-NOについては「YU-NO~エンディングの持つ意味・効果について~」を参照)。まあ取り上げた材料の偏りにも原因があるとは思うのだけど、それにしても「人間という名のエミュレーター」で書いた、「自分に関係ないという帰属処理」を安易にやってしまう人たちの思考回路は大いに問題だと思う。もちろん、「共感の問題点:戦略性と再帰的思考」などでも触れているように、価値観の多様化が不可逆である以上社会の複雑化・不透明化は進まざるをえず、フリーライダーや排除・監視といった問題は深刻化せざるをえないのだが、それゆえにこそ、その歯止めとして内省や遡行(再帰的思考)が必要となってくる。もちろんそれにも限界があるためシステムによる補完が不可欠なのだけど、そもそもシステムで補完しなければならないというコンセンサス、とは言わないまでも志向性(これがないと、価値観の多様化そのものが悪であるという多様性フォビアが跳梁跋扈する)が社会に生まれる必要があり、再帰的思考はその源泉として不可欠である。しかしまあこの複雑化した社会ではそもそも思考的営為によって理解に到るのは不可能で、ゆえに宮台真司風に言えば「悲劇の共有」や偶然性の理解といった共通前提を通じての「社会的包摂性」が必要だ、といった話になるわけだが・・・まあ東浩紀の場合はそういうもので社会が改良できるとは考えていない(諦めている)ので、それでも回る社会をどうしたら構築できるのか(民主主義2.0)という方向性を模索することになる(ゆえに最後で「アメリカ的なネットに変えるべきだ」とする梅田望夫の意見を一蹴したりしている)。まあもっとも、「それでも回る社会」というのを構築するためにもやはりフリーライダー問題といったものは避けて通れない。自分が努力しているからこそ抜け駆けして得しているヤツ、楽しているヤツが許せん!みたいな反応は当然出てくるわけだが、じゃあこのご時世において「努力」って何やねん?という疑問は出てくる。ワークライフバランスの重要性云々とか言う前に、そもそも豊かさを手に入れるという目標が自明性を失っ(豊かさの基準が多様化し)た社会で何に向かって「努力」すべきなのかコンセンサスを取れるんかいなと。ここで「労働は人間の本性である」などと言って正当化するのは非常に簡単だが、そもそも「労働」にしたって労働形態の問題とかあるわけですよね(「正社員にならない人はみんな遊んでいる」、なんてナイーブな考えを持っている人はさすがにいないと思うけど)?まあそんな真理(のベールを借りた自分の願望)の話してる暇があったら機能の話しませんか・・・とか何とか。まあこういった事情ゆえに境界線は常に問題であり続け、また再帰的思考は避けて通れないと俺は思うのだけど・・・・って軽く紹介するつもりがのっけから濃い話をしてしまった・・・
〇アニメに関してネタとして盛り上がる日本、まじめに(?)称揚しようとする海外(前篇1)
友人からも揶揄されたりするくらいなので、自分が後者に近いと見なされているのは想像に難くないwしかし、俺はどっちが優位だとか正しいとは考えておらず、むしろどっちもやりゃあいいのに、と思っている(まさにオールレンジグリーン!)。ゆえに俺はノリ次第で両方やりますよと。というかまあネタ的な振舞いを「ベタにネタ」として信用してないのが一番大きいんですがね(「ヘタレと『自己認識』」)。ただなぜそういう思考的閉塞に陥るのかも興味深い。
〇日本のネットの特異性(前篇2)
ニコニコ動画的なもの。コンテンツよりコミュニケーション。「君が望む永遠」の記事で使った「覇王翔吼拳を使わざるをえない」などが一例だと言わざるをえない。まあそこではオウム真理教の歌だとか三国無双ネタ(張紘→張郃)が入り混じってひっちゃかめっちゃかになっており、しかもそういうコラボレーションはもはや今日では極めて凡庸なものにすぎないことも認めざるをえないのだが。
〇「オタク」とは・・・(前篇2)
「オタク」は「ニート」と近いと海外からは見なされがちだが、実際には階級性はなく、これは極めて特殊な事であるという話。ブラックカルチャーの例が出てくるが、アイヌ文化などとも合わせて興味深い問題だ。なお、「お宅」という言い方はもともと山の手系の奥様が他称に使っていた表現であること、つまりは「オタク」が裕福な家庭の子どもを中心としており、ゆえにLDとかも買う余裕があり、太っているといった特徴を持っていたが、今ではウィニーで落とせる=財政事情が関係なくなった(がためにますます階級性が希薄化した)といった説明がなされる。「沙耶の唄:虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」で書いた、90年代前半以前のエロゲーマーと90年代後半以降のそれとの違いにも繋がるものがある。まあそうやって裾野が広がって「薄く」なったという見方もできるだろう。とはいえ、歴史的に作られたものにすぎない「オタク」なる名称・カテゴリーを何か深遠なものかのように考えてるのか知らんが「真のオタク」などと言うのを聞くと、「そりゃ単にアンタがそう思ってるだけじゃねーの」と突っ込みたくなる。
〇漫画の顔に普遍性がある?(前篇2)
先の「オタク」の非階級性とも繋がるが、元々エスニシティの意識が薄いのだろう。ただ、普通に日本人を書いてるはずなのにイタリア人だと思われたり(キャプテン翼)、別にヨーロッパ人に似せようと思ってもいないのにフランス人に思われたり(ハイジ)、というユーティリティはなかなかおもしろい。直接は関係ないが、そして何で読んだか忘れたが、戦後すぐに飲食店か何かで外人のグラビアを平気で飾っているのをもって「日本人の征服された心性」みたいな評価をしているものがあったが、どっちかっつーと意識の薄さや「節操のなさ」と関連してるんじゃないかしらんと思ったりwとはいえ、戦前には「ご真影」などもあったわけで、そういう発想そのものが皆無だったはずがないんだけどね。それさえもあっさり忘却してしまったのかしらんwあるいは単にアナロジーの発想が働かないのだろうか?
〇「オタク」はもはやタグ化している(前篇3)
「オタク」はもはや文脈自由なもの、組み合わせ可能な言葉になっている(もはやスティグマどころか「ちょっと変わっている」ことを意味する程度だったり)。つまりは単なる自慰識や党派性の問題なわけで、まあ気楽にやれよと言わざるをえないwとりあえず、そんなカテゴライズで自分の行動・思考を縛るのはアホくさいので止めた方がいいと思う。「節操がない」ってのは確かに批判的な言辞として機能しうるけど、だいたい「統一的な自己」なんざ欺瞞だからね(それがあるようにみせかけないと社会生活上不便になるのは確かだけど)w整合性がある「はずだ」、とか整合性を持たせ「なければならない」と言うのなら、それが(今でも)必要である根拠をしっかり提示しましょう。別に解離的でいいんじゃねーの?
〇日本のケータイの特異性(前篇4)
ネットの話と同じく、とは言われていないが、これまたコンテンツよりコミュニケーション重視と指摘されている。特異な文体やらケータイ小説の話も、それを無視しては語りえないだろう。なお、ここで言われる「人類の歴史上かつてこんなに小説を書くのが気軽になったことはない」という話は総表現社会(ヨゼフ・ボイス)の話題として黒須のpixivの話題へ繋がる。
〇pixiv⇒タグで並べられることの残酷さと可能性(中篇1)
個別の「真理」に閉じこもる社会で、あからさまに自らの凡庸さが見えてしまうのは確かに残酷である。以前紹介した「ムーたち」で「今世界で自分と同じことを言っている人・やっている人が一瞬でわかる機械」みたいなのがネタとして出てくるが、現実化してみると交換可能性が明らかになってアイデンティティクライシスを引き起こすのか?それとも他と同じであることを喜ぶのか・・・まあ両方か。そんなことはさておいて、とりあえず東のムンク展の話(ナレーション)が最高。個人的には「これは・・・ムンクきついね~」が一番のお気に入りw
〇表現規制に関する日本と欧米の違い(中篇3)
ネタ化せざるをえない日本(前近代的)。婉曲はレトリックとして確かに使うが、一方でそうせざるをえないという閉塞的状況にも注意を払う必要がありますよと。表現の自由に関する意識の違い。これはもっと詰めて考えていきたいところ。
〇訴訟社会とクレーム社会(中篇4)
個人と集団。アメリカの航空会社の対応が亜空間すぎて笑える。ガチ訴訟か泣き寝入りの両極端なアメリカ社会の過酷さ、という話はとても興味深いのでいずれ調べてみたいところだ。「文句を言わない=受け入れたと見なされる」云々。
〇大学スポーツの規模の違い(後篇1・2)
寄付文化の有無⇒図書館・美術館などの運営方法や規模の違いとも関連。寄付と聞くと必ず「ウンジャマラミー」のジョー・チン(犬)の"and needs your donation.・・・and I mean NOW”というセリフが必ず思い出される、さらにanythingと聞くとチャック店長の・・・という話はどーでもいいとして。この話題で自分が連想したのは、大学スポーツではないが、ボクシングのファイトマネーの違いだった。当時中学くらいで「はじめの一歩」にハマっていた時、バイトをやりながらプロボクシングをやっている姿を見て、なぜアメリカのボクサーとこうも違うのかと思った記憶がある。もっともそれは、「アメリカのボクサー」がボクシングマガジンに出てくるような世界ランカーに限定されていて、サイモン&ガーファンクルの"boxer”に出てくるような存在が念頭になかったことも原因としてあるのだろうけど。
とまあそれはさておき・・・今回はこのブログで何度か引用したねとすたシリアスを紹介します。まあその1についてはネトゲ廃人の「普通さ」や「空気」の生成過程などに関連してリンクを貼ったことがあるので、ここではその2の方を取り上げようとおもいます。ただ、なんや小難しい話が展開されるんかいなと思う人もいるかもしれませんが、「ポルノ映画の題名はどうやってつけられるか?」など話そのものが基本的におもしろい(笑える)ので、肩の力を抜いて楽しんでもらうといいんじゃないかと思います。とはいえ、様々なフック(この話も出てきますが)として十分に活用できるので、まあちょっと時間を使って見てくださいな。また、前篇・中篇・後篇でそれぞれ40分強かかるので、一応いくつかの話題をピックアップしました。もし興味があればそこだけ部分的に見てもおもしろいかと。なお、各項目に感想めいたことが書いてありますが、結構長いので動画を見てから読むことをおすすめします。
〇サブカルチャー⇒新しい知の動きとしての理解(前篇1)
『動物化するポストモダン』は、「作品の形式やその受容のされ方が時代性とリンクしている」という話だったはずなのに、単なるオタク研究として受け取られた・・・とかつて東浩紀が嘆いていた(とはいえ、作品の取り上げ方はいささか恣意的な部分があるように思われる。たとえばYU-NOについては「YU-NO~エンディングの持つ意味・効果について~」を参照)。まあ取り上げた材料の偏りにも原因があるとは思うのだけど、それにしても「人間という名のエミュレーター」で書いた、「自分に関係ないという帰属処理」を安易にやってしまう人たちの思考回路は大いに問題だと思う。もちろん、「共感の問題点:戦略性と再帰的思考」などでも触れているように、価値観の多様化が不可逆である以上社会の複雑化・不透明化は進まざるをえず、フリーライダーや排除・監視といった問題は深刻化せざるをえないのだが、それゆえにこそ、その歯止めとして内省や遡行(再帰的思考)が必要となってくる。もちろんそれにも限界があるためシステムによる補完が不可欠なのだけど、そもそもシステムで補完しなければならないというコンセンサス、とは言わないまでも志向性(これがないと、価値観の多様化そのものが悪であるという多様性フォビアが跳梁跋扈する)が社会に生まれる必要があり、再帰的思考はその源泉として不可欠である。しかしまあこの複雑化した社会ではそもそも思考的営為によって理解に到るのは不可能で、ゆえに宮台真司風に言えば「悲劇の共有」や偶然性の理解といった共通前提を通じての「社会的包摂性」が必要だ、といった話になるわけだが・・・まあ東浩紀の場合はそういうもので社会が改良できるとは考えていない(諦めている)ので、それでも回る社会をどうしたら構築できるのか(民主主義2.0)という方向性を模索することになる(ゆえに最後で「アメリカ的なネットに変えるべきだ」とする梅田望夫の意見を一蹴したりしている)。まあもっとも、「それでも回る社会」というのを構築するためにもやはりフリーライダー問題といったものは避けて通れない。自分が努力しているからこそ抜け駆けして得しているヤツ、楽しているヤツが許せん!みたいな反応は当然出てくるわけだが、じゃあこのご時世において「努力」って何やねん?という疑問は出てくる。ワークライフバランスの重要性云々とか言う前に、そもそも豊かさを手に入れるという目標が自明性を失っ(豊かさの基準が多様化し)た社会で何に向かって「努力」すべきなのかコンセンサスを取れるんかいなと。ここで「労働は人間の本性である」などと言って正当化するのは非常に簡単だが、そもそも「労働」にしたって労働形態の問題とかあるわけですよね(「正社員にならない人はみんな遊んでいる」、なんてナイーブな考えを持っている人はさすがにいないと思うけど)?まあそんな真理(のベールを借りた自分の願望)の話してる暇があったら機能の話しませんか・・・とか何とか。まあこういった事情ゆえに境界線は常に問題であり続け、また再帰的思考は避けて通れないと俺は思うのだけど・・・・って軽く紹介するつもりがのっけから濃い話をしてしまった・・・
〇アニメに関してネタとして盛り上がる日本、まじめに(?)称揚しようとする海外(前篇1)
友人からも揶揄されたりするくらいなので、自分が後者に近いと見なされているのは想像に難くないwしかし、俺はどっちが優位だとか正しいとは考えておらず、むしろどっちもやりゃあいいのに、と思っている(まさにオールレンジグリーン!)。ゆえに俺はノリ次第で両方やりますよと。というかまあネタ的な振舞いを「ベタにネタ」として信用してないのが一番大きいんですがね(「ヘタレと『自己認識』」)。ただなぜそういう思考的閉塞に陥るのかも興味深い。
〇日本のネットの特異性(前篇2)
ニコニコ動画的なもの。コンテンツよりコミュニケーション。「君が望む永遠」の記事で使った「覇王翔吼拳を使わざるをえない」などが一例だと言わざるをえない。まあそこではオウム真理教の歌だとか三国無双ネタ(張紘→張郃)が入り混じってひっちゃかめっちゃかになっており、しかもそういうコラボレーションはもはや今日では極めて凡庸なものにすぎないことも認めざるをえないのだが。
〇「オタク」とは・・・(前篇2)
「オタク」は「ニート」と近いと海外からは見なされがちだが、実際には階級性はなく、これは極めて特殊な事であるという話。ブラックカルチャーの例が出てくるが、アイヌ文化などとも合わせて興味深い問題だ。なお、「お宅」という言い方はもともと山の手系の奥様が他称に使っていた表現であること、つまりは「オタク」が裕福な家庭の子どもを中心としており、ゆえにLDとかも買う余裕があり、太っているといった特徴を持っていたが、今ではウィニーで落とせる=財政事情が関係なくなった(がためにますます階級性が希薄化した)といった説明がなされる。「沙耶の唄:虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」で書いた、90年代前半以前のエロゲーマーと90年代後半以降のそれとの違いにも繋がるものがある。まあそうやって裾野が広がって「薄く」なったという見方もできるだろう。とはいえ、歴史的に作られたものにすぎない「オタク」なる名称・カテゴリーを何か深遠なものかのように考えてるのか知らんが「真のオタク」などと言うのを聞くと、「そりゃ単にアンタがそう思ってるだけじゃねーの」と突っ込みたくなる。
〇漫画の顔に普遍性がある?(前篇2)
先の「オタク」の非階級性とも繋がるが、元々エスニシティの意識が薄いのだろう。ただ、普通に日本人を書いてるはずなのにイタリア人だと思われたり(キャプテン翼)、別にヨーロッパ人に似せようと思ってもいないのにフランス人に思われたり(ハイジ)、というユーティリティはなかなかおもしろい。直接は関係ないが、そして何で読んだか忘れたが、戦後すぐに飲食店か何かで外人のグラビアを平気で飾っているのをもって「日本人の征服された心性」みたいな評価をしているものがあったが、どっちかっつーと意識の薄さや「節操のなさ」と関連してるんじゃないかしらんと思ったりwとはいえ、戦前には「ご真影」などもあったわけで、そういう発想そのものが皆無だったはずがないんだけどね。それさえもあっさり忘却してしまったのかしらんwあるいは単にアナロジーの発想が働かないのだろうか?
〇「オタク」はもはやタグ化している(前篇3)
「オタク」はもはや文脈自由なもの、組み合わせ可能な言葉になっている(もはやスティグマどころか「ちょっと変わっている」ことを意味する程度だったり)。つまりは単なる自慰識や党派性の問題なわけで、まあ気楽にやれよと言わざるをえないwとりあえず、そんなカテゴライズで自分の行動・思考を縛るのはアホくさいので止めた方がいいと思う。「節操がない」ってのは確かに批判的な言辞として機能しうるけど、だいたい「統一的な自己」なんざ欺瞞だからね(それがあるようにみせかけないと社会生活上不便になるのは確かだけど)w整合性がある「はずだ」、とか整合性を持たせ「なければならない」と言うのなら、それが(今でも)必要である根拠をしっかり提示しましょう。別に解離的でいいんじゃねーの?
〇日本のケータイの特異性(前篇4)
ネットの話と同じく、とは言われていないが、これまたコンテンツよりコミュニケーション重視と指摘されている。特異な文体やらケータイ小説の話も、それを無視しては語りえないだろう。なお、ここで言われる「人類の歴史上かつてこんなに小説を書くのが気軽になったことはない」という話は総表現社会(ヨゼフ・ボイス)の話題として黒須のpixivの話題へ繋がる。
〇pixiv⇒タグで並べられることの残酷さと可能性(中篇1)
個別の「真理」に閉じこもる社会で、あからさまに自らの凡庸さが見えてしまうのは確かに残酷である。以前紹介した「ムーたち」で「今世界で自分と同じことを言っている人・やっている人が一瞬でわかる機械」みたいなのがネタとして出てくるが、現実化してみると交換可能性が明らかになってアイデンティティクライシスを引き起こすのか?それとも他と同じであることを喜ぶのか・・・まあ両方か。そんなことはさておいて、とりあえず東のムンク展の話(ナレーション)が最高。個人的には「これは・・・ムンクきついね~」が一番のお気に入りw
〇表現規制に関する日本と欧米の違い(中篇3)
ネタ化せざるをえない日本(前近代的)。婉曲はレトリックとして確かに使うが、一方でそうせざるをえないという閉塞的状況にも注意を払う必要がありますよと。表現の自由に関する意識の違い。これはもっと詰めて考えていきたいところ。
〇訴訟社会とクレーム社会(中篇4)
個人と集団。アメリカの航空会社の対応が亜空間すぎて笑える。ガチ訴訟か泣き寝入りの両極端なアメリカ社会の過酷さ、という話はとても興味深いのでいずれ調べてみたいところだ。「文句を言わない=受け入れたと見なされる」云々。
〇大学スポーツの規模の違い(後篇1・2)
寄付文化の有無⇒図書館・美術館などの運営方法や規模の違いとも関連。寄付と聞くと必ず「ウンジャマラミー」のジョー・チン(犬)の"and needs your donation.・・・and I mean NOW”というセリフが必ず思い出される、さらにanythingと聞くとチャック店長の・・・という話はどーでもいいとして。この話題で自分が連想したのは、大学スポーツではないが、ボクシングのファイトマネーの違いだった。当時中学くらいで「はじめの一歩」にハマっていた時、バイトをやりながらプロボクシングをやっている姿を見て、なぜアメリカのボクサーとこうも違うのかと思った記憶がある。もっともそれは、「アメリカのボクサー」がボクシングマガジンに出てくるような世界ランカーに限定されていて、サイモン&ガーファンクルの"boxer”に出てくるような存在が念頭になかったことも原因としてあるのだろうけど。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます