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「愛少女ポリアンナ物語」を観終わる

2006-05-10 01:03:09 | レビュー系
前にちょっとした感想を書いたので、いちおうけじめ(笑)をつけることにしよう。

アニメを原作と比較すると、ボストンからヴェルディングスビルに戻った後の話から大きく変化する。原作では数年が経過するんだが、アニメはそのまま話が進む。

年をそのままにしたのは、視聴する対象が少年・少女の世代だからだろう。しかし、そこを変化させたことによって最後の部分がキレイにまとまっていない。だから、パレーもペンデルトンもカリューもなんだか宙ぶらりんのままなので、いきなり最後にクリスマスのシーンでポリアンナやジミーが楽しく遊んでいても何か微妙な印象なのだ。この辺りは単に改変によるしわ寄せなのか、見てる世代を考慮して大人は適当でいいやと考えたのか不明。どちらにしろ、最後が微妙なのは変わりない。また例えば、流れに違和感を持たせない、という役割を果たしていたチップマックは、最後のほうは全くと言っていいほど出番ない。そのあたりの新要素を放置
する形になったのもマイナスの印象。また、両手を怪我したポリアンナがジミーと馬に乗るなど、根本的にあり得ないことを平気でやってるあたり、終盤の作りの雑さがうかがえるというものだ。

とはいえ、これはやや厳しめの評価かもしれない。というのも、他の名作劇場のエンディングと比較しているわけではないし、また根本的な問題として原作の『パレアナの青春』における時間経過後の展開自体がけっこう微妙な内容だからだ(変えたのはそれも理由にあるのかも)。

良心的に見れば、「色々な理由から終盤の内容を大きく変えたが、それによるしわ寄せをうまく処理できないまま微妙なエンディングを迎えた」というところか。

次に全体的な話。アニメでは、原作の展開に必然性を付与しようと腐心している場面が随所に見られる。医師のチルトンがポリアンナの父親に似ているということを語らせるのはその最たる例だと思う。しかし、これはマイナスも大きい。確かに、テレビでより客観的に見ると「喜びの遊び」がうそ臭く感じられるというのはあるのかもしれないが、色々な出来事に客観性を細々付与していくことで逆に「喜びの遊び」そのものの効果・印象が薄れているからだ。多少ぶっ飛んでいるこらいの方がインパクトはでかいし、そのインパクトゆえに「喜びの遊び」が強く印象付けられるのだ。ただ、こちらも計算しているのかしてないのかよくわからない。ちょい深読みすると、題名にいちいち「物語」と付けたのはエピソードが中心にしたかったとも取れるからだ。だから、原作を読んだときに「少女が大人を救う話」「物を見る視点を変えてみることの大切さ」の二つが大きな柱だと感じた私の印象とはずれている、ということなのかもしれない。とはいえやはり、内容が多少なりとも「薄くなっている」のは間違いない。

あと印象に残っているのは、第二部EDの「幸福(しあわせ)」。ポリアンナが悲しそうにうつむいたりする画像と合わせて結構いい感じだと思う。

まあちょいちょい不満はあるが、製作者側がどこを工夫しようとしていたかを見る限り、それなりに考えて作っているという印象を受けるので、それが終盤でオリジナリティが必要になる段階になって力及ばず、ということなんだろう。まあそこまで評価すればそれなりに見る価値はあるアニメなのではないだろうか。

まあ先に『少女パレアナ』をオススメしますが。

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