「ナポレオン」を観に行く前に、そもそも「首」のレビューで言い忘れたことあったわ・・・ということで、二点補足。
本能寺の変は、天下統一を目前にした「魔王」が、その部下に親子ともども殺された事件として非常にインパクトがあり、ゆえにそのインパクトに見合うだけの深淵な何かがあるに違いない、と人々の想像力を掻き立ててきた。
それゆえ、今のところ確認できる限りにおいては、光秀が長曾我部との橋渡し役という重要な存在価値について梯子を外されたこと、また信長・信忠親子を一網打尽にできる兵力の空白状態がたまたま京都に出来上がっていたことから、自身の立場に危うい兆しが見えていたところ、いっそ権力を我が物にしてやろうという言わば「思い付き」によるクーデターであった、ということしか確認ができない。
しかしそれにもかかわらず、光秀「ごとき」が、まして「思い付き」で歴史を動かしたなどというのはどうにも座りが悪いから、例えば後に天下人となった秀吉であったり、あるいは家康であったりが裏で糸を引いていると考えた方が、心情的に納得しやすいということなのである(もちろん、それを傍証する新出史料でも出てくれば話は別だが)。あるいは、仮に光秀が暴発したのだとしても、それはあまりの仕打ちに耐えかねてのことだったのだ、と信長の冷酷な振る舞いが軍記物などで後世創作されていった次第だ(このあたりの、壮大な世界像を思い描きたがるという傾向は、つまるところ宗教やイデオロギーにも当てはまるもので、ハラリ『サピエンス全史』的に言えば、共同幻想で文明を巨大化させてきた人間の抜きがたい性質の一つである)。
「首」においては、そのあたりが言わばハイブリッド型に提示されていると言える。すなわち、信長の度重なる仕打ちと合わせて、それが彼の並外れた器(例えばあまりに有能なのでその考えがこちらから理解できなかったり、あるいはこちらの凡庸な考えを信長が理解できない)によるものではなく、単に己の矮小さや臆病さを糊塗するための「空威張り」的なものに過ぎなかったと知り、光秀に失望と怒りが湧いて来る。そしてそこに、秀吉がその野望を達成するために光秀を唆す言動をする、というわけである。
「首」では、そもそも完全に主導権を握る存在はおらず、また善ではないことも描写が徹底しており、「何者かが青写真を描き、それに沿って自体が進行して、全く思惑通りになった」という描き方は基本的にしていない。
だから、光秀を焚きつけて見事反乱を起こさせ、それを鎮圧に向かう秀吉の様でさえ、切腹の儀礼にイライラしたり、渡河の際に嘔吐して意識朦朧となるなど、全てがどこか抜けているのである。
まあその意味では、誰かを英雄ともピカレスクともしないような「相対化」は徹底していると言えるが、それでもやはり陰謀が渦巻いていたという見方自体は、ありふれた本能寺の変のイメージを出ていない点に注意が必要である(まあ保身も兼ねた思い付きでやりました!てのは小悪党感は出るだろうけど、物語的には映えないからねえ)。
2.衆道と関係性
「首」のレビューで述べたように、「首」では衆道=ホモソーシャル的関係性を土台にする信長・光秀・村重と、そちらに興味を示さない秀吉・家康が対照的に描かれており、前者は旧体制の象徴として倒される側で、後者は新体制の象徴として倒す=戦国時代を終わらせる側となっている(まあ作中では家康にそういう片鱗があるような描き方はしていないが)。
この表現方法自体はなかなかに興味深いのだが、一方でこういう関係性を軸にした作品内での描写を、そのまま現実の歴史に短絡させたらとんでもないミスリードに陥りかねないので注意が必要である。
その最たる例が、前に紹介した大寧寺の変と言える。このクーデターでは、西国の雄である大内氏(義隆)が、その家臣である陶隆房を中心とする反乱勢力に滅ぼされているのだが、乱の原因が両者の衆道関係にあり、義隆が政治に興味を失って貴族趣味に流れる軟弱さを見せ、それを厭わしく思った陶の「痴情のもつれ」が根底にあるかのような俗説が語られてきた。
しかし実際には、義隆は尼子家への思わぬ惨敗の後も、次なる抗争へ向けて慎重に防備を固めるなど抜かりはなく、また「貴族趣味」についても、そもそも足利義稙の将軍復帰援助(cf.船岡山合戦)などで京との関係が深く、従二位という足利将軍家を超える高い官位も得ていた大内氏の元には、この時期京の混乱を避けて(そもそも足利義晴は近江=滋賀に逃れていた)多くの公家が下向しているという事情もあった。そしてそれは義隆の「貴族趣味」などという個人の嗜好ではなく、事によっては遷都まで視野に入れていたのではないかという説まで出ているのである(もちろん、このような政策への動きを陶の主観で「貴族趣味」と見ていた可能性までは否定できないが)。
またあるいは、陶隆房はそもそも陶氏の出身ではなく、他家から養子となっているのだが、その元々の出自も踏まえて見ると、大内家全体の中での対立図式や、あるいは大寧寺の変で陶側に味方した人間たちの模様も見えてくる。
要するに、事件の背景を丁寧に紐解いていくと、前述のような「痴情のもつれ」のような俗説的見解は、結果から逆算した義隆の軟弱さと陶の武断的性質をわかりやすく対比し、人々がいかにも納得しそうな図式にレッテル貼り・単純化しているのであり、非常に問題が多いものと言えるのである(このような描写方法がありふれている事は、信長に敗れた今川義元が弓の名手であることを無視して「貴族趣味=軟弱」のレッテル貼りをするのもそうだし、何より「旧秩序の破壊者・暴君信長と、旧秩序を重んじ耐える光秀」という巷間よく語られる図式を想起すれば十分だろう。ちなみに光秀は、比叡山焼き討ちなどの際に、忌避するどころか先頭に立って「なで切り」などを行っていた様子が同時代史料に残っている)。
義隆について、変の予兆(毛利氏への調略などなど)を長い間看過した瑕疵は非難されて然るべきだが(はっきり言ってここは「無能」以外の評価ができない)、その要因を貴族趣味や衆道に求めるのは根拠薄弱と言えるのである。
「関係性妄想はせいぜいエンタメの中くらいにしとけ」と言えばいささか反発を受けるかもしれないが(これは性被害とレイプファンタジーの件でも以前述べた)、こういう単純すぎる図式的理解を放置すれば、ウクライナ戦争やパレスチナ情勢などをきちんと把握していこうとする時に、必ずと言っていいほど妨げになる。というか、身近な話でも、そのような発想は、かつての表現で言えば「キャラ的人間関係」のような形で自他を記号化する抑圧的思考・行動として機能し、他人はもちろん自分の首をも絞めることになってしまうのである(言い換えれは、実証主義による複雑な歴史の多面的理解と、人間の多面性・重層性の理解というものは、遠いようで地続きの思考態度なのだ)。
その意味でも、衆道云々の話はあくまで描写のレトリック・スパイスとしては結構だけれども、それを複雑な現実に当てはめようとすると有害な方向に作用してしまう、と述べつつこの稿を終えたい。
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