映画「首」レビュー:ホモソーシャルな武士の関係性とその崩壊が意味するもの

2023-12-03 14:54:25 | レビュー系

さて、ここでは映画「首」のレビューを書いていこうと思いマスよと。

 

前回の記事で、そこまで大きな驚きや発見はなく、70~80点くらいの印象だと書いた。ではそもそも、自分が視聴する前はどんな状況だったかと言うと、完成披露会見の内容などから、「戦国時代版アウトレイジ」とでも呼ぶべき内容だろうと予測していた。これはつまり、「武士道」とか「革命児」みたいな感じのイメージを背負って語られてきた人々やその集団が、大義名分を掲げながらどういう非道を行ってきたか?という視点で製作されているという理解である(その意図が徹底していることは、誰一人として英雄に見えないように、各々が何らかの独善性や小物感を抱えている描写をしていることから窺えた。まあその狙いが織り込み済みだった側としては、ちょっとわざとらしいくらいに感じたほどだがw)。

 

だいぶ端折った言い方なのであれこれ誤解を招くかもしれないが、これは戦国時代が終わって近世になり、戦乱がほぼ無い中で軍記物や『葉隠』、『忠臣蔵』などで偶像化され、さらにそれが近代に入って新渡戸稲造の『武士道』などで完成に到った武士の肖像を、批判的に描く作品だということである(例えば幕末の動乱も天狗党と諸生党の角逐を知っていればもっと武士への批判的な眼差しが出てきて然るべきなのだが、どうも「理念のぶつかり合い」とでもいうような、抽象的で美化された認識が根強く残っているように思われる)。

 

もう少し説明しておくと、そもそも「アウトレイジ」はヤクザ世界の抗争を描いた作品で、三作目では結局「筋を通して死ぬ」みたいな話に落ち着いてしまうのだが、元々の一作目に関しては、誰もが「筋を通す」みたいなことを言いながら、その「筋」はしばしば独善的でお題目的であり、そうして始めた抗争がいつの間にか止めようもなくなって、主要人物がみんな死んでいく・・・という話だった(登場人物たち全員が一から十まで損得勘定で動いている訳ではなく、そこには大友組内部で見られるように忠誠心や義理などの要素もあったが、ゆえにこそむしろ組織の論理で分断・処刑されていく様がより悲惨な印象を強くした、とも言える)。そこでは、いかなる人物も「善」ではありえず、その意味で「全員悪人」というキャッチフレーズが正しい作品なのであった。

 

とまあこういう「アウトレイジ」的要素を継承した作品として「首」も見た訳だが、良くも悪くも大きな枠組みとしてはそこから一歩も出なかったというのが自分の印象だ。しかし、これだけだとさすがに説明不足なので、もう少しだけ踏み込んでみよう。

 

まず、残酷描写は思ったより大したことがなかった。内臓くらいは想定してたが全く出てこず、また題名通り首(斬首)はよう出てくるが、残念ながらその首自体の小道具がしょぼく、作り物感満載すぎてぜんぜん迫力を感じなかった。もちろん、どこまでリアリスティックに表現すべきか(やり過ぎると逆に拒絶される??)という点で意図的にショボくしたのかもしれない。だけれども、ドンキで売ってる被り物+αぐらいの生首がごろごろあったところで生々しさも凄惨さも怨念もないし、ゆえにそこに拘って駆け回る人々の必然性も滑稽さも見てる自分に全く迫ってこない、というのが率直な感想だった(話の構成がはっきりしている分、この迫力不足による説得力の欠如は、かなりデカいマイナス要素)。

 

次に、前回の記事で「戦国版おっさんずラブ」という評価の話をしたが、実はこれは極めて重要な点なので、掘り下げて説明したい。「おっさんずラブ」てのはまあ「衆道」の話なんだけど(てかここまでダイレクトに書くのねw)、単に男色云々が問題なのではなく、それが武士たちのホモソーシャルな関係性(紐帯)の象徴となっている、という点が大事だ。そういう視点で見ると、

1.衆道にこだわる描写があるのは主要人物で織田信長・明智光秀・荒木村重の3名

2.逆に主要人物で衆道の描写がないのは豊臣秀吉と徳川家康の2名

という図式になる。

念のために言っておくと、現実の秀吉なんかは百姓の出身でそもそも衆道に親しんでおらず、女のケツばかり追っかけていたので「アイツは武士の嗜みを知らねえ」と同僚の武士に陰口を叩かれたりしている・・・といった意味では史実通りではあるのだが(ちなみに本編で女に執着する描写はない)、そういった史実のことはさておき、作品として見るとこれは「1=旧体制志向」VS「2=新体制志向」という図式でみるのことができる(この点、「夜鷹」=一種のアウトサイダーのリーダー格を、性的中間者=マージナルな存在として描写している点を想起するのも有益だろう)。

 

つまり1のグループは、衆道的関係性、言い換えれば武士のあり方にこだわり、またその象徴である「首」にこだわる人々だ。そしてこの3名はいずれも天下統一を成し遂げられず、命を落とす(まあ荒木村重には天下人になる意思はないのだけど)。そして2のグループは、そこへのこだわりがないか、少なくとも薄いように見える。秀吉は百姓の出自であることが何度となく言及されているが、ゆえに衆道に興味を示さないし、武士のあり様にも興味を示さないし、首にもこだわらない(「侍大将=武士になりたい」中村獅童演じる農民が、やたら首にこだわる描写もあわせて想起したい。その意味で言えば、あくまで旧来の武士的価値観に没入している・しようとする人々と違い、秀吉は武士階級の中にいながら、同時にそのあり様を鼻で笑ってもいる、とでも表現できようか)。

 

だから、備中高松城の城主が切腹する時の儀式でも、秀吉はイライラするだけで「早く死ねよ!」と叫ぶし(展開上光秀を討つ「大返し」のため急いでいるという背景はもちろんあるけども)、そしてラストでも、「死んだことさえわかれば、首なんてどうでもいい」と発言するわけだ(ちなみに家康の場合はというと、醜女好みなことにはわざわざ触れるのに、衆道への志向は一切言及されていない。こちらについては、作中でも言われているように、信長たちとは一線を画しつつ、「本音がわからない」・「信用していない」ことを暗示していると見るのが正しいだろう)。

 

こんな具合で秀吉は何とも現金というか典型的俗物として表現されているわけだが、武士のあり方を「ヤクザのしきたり」に読み替えると、そこにこだわらないことは、一方でその抗争=戦国時代を終わらせることができる人間という読み替えも可能だろう(関連するもので言うと、毛利側の講和代表を担当した安国寺恵瓊は、武士の面子を立てつつ、裏では舌を出すような面従腹背の振る舞いをしていた。正直ここでの描写はちょっと雑だなと感じたが、まあ彼が後に秀吉に評価されて取り立てられることを考えると、彼及びその行動原理は、武士的なものから距離を取る、秀吉側に与するものだという描写なのだろう。ちなみにこの「腹芸」のような態度は、ある種「日本の一番長い日」の阿南惟幾などにも通じるもので、その意味では現代にもつながる「恥の文化」的な宿痾と言えるのかもしれない)。

 

この辺は秀吉が後に天下統一し、また惣無事令を出して日常的に抗争が続く世を終わらせる存在となった、という歴史を踏まえているのかもしれない(ただ、この推論は作中に根拠があるわけではなく、あくまで史実というか学説から敷衍した話に過ぎないものである。なお、そもそも藤木久志が唱えた惣無事令=豊臣平和令の存在や有効性自体を疑問視する声が近年強くなっていることも指摘しておきたい→呉座勇一『動乱の日本戦国史』などを参照)。

 

この視点で見ると、信長の描写もなかなかに興味深い。というのも、彼の奇矯な振る舞いはいかにも一昔前の「うつけ」とか「魔王」と評されていた頃のそれに近く、軍記物やそれを受けた信長像が令和になっても無批判に描かれているのか?と一寸思えるが、先に述べたように、衆道に耽溺し、またやたら首にこだわる発言をさせることで、むしろ「奇矯な発言はしながら、その実はゴリゴリの保守的志向性を持つ人物」であることを暗示しているからだ(まあだから、自分の家臣に天下を委ねる実力主義はタテマエで、ホンネは息子に継がせるのことにあるのだ、という論理展開に作中ではなるのだが)。

 

そしてかかる人物であるがゆえに、「所詮は旧来の発想法や旧体制に依存する人間でしかない」ということになり、よって光秀が「魔王だと思って(この世を変革できると考え)我慢して仕えてきたのに失望した!」とブチ切れる展開につながるのだろう(まああえて踏み込んで表現すれば、信長の振る舞いは「不安から来る反動としてのイキり」のようなものと言えるかもしれない。つまり、「自らが有能でかつ実力主義的であるがゆえに、他者も自分と同じ目線で厳しく評価して同じレベルの者に後を継がせる」のではなく、単に不安ゆえ奇矯な振る舞いで「私のこと好き?」と他人を試し続けずにはいられないメンヘラのようなものだ、という話)。よって例えば、黒人たる弥助を召し抱えるのも、信長が既存の枠組みにとらわれない度量を持っていることを示すわけではなく、単に自己アピールのためのアクセサリーでしかないため、最後は当の弥助に裏切られ、殺される末路を辿るわけだ。

 

そしてその光秀も、結局は衆道の側、つまり信長と同じ価値観でしか動いていないので、自身も横死することになるのは必然という話になる(衆道の相手を切り捨てた=旧来の秩序から脱却しかけたのに、結局首にはこだわる=それが不徹底だった、と言いたいのかな?)。この点については、信長を単に型破りでクレイジーなヤツと描写する昔ながらのそれとは違い、内面ではコンサバティブな人間であることを暗示するというねじれた描写な点で一線を画しており、興味深い部分ではあった。

 

まあ現実には、そもそも彼の奇矯な振る舞いの多くが、『信長公記』の(おそらくずっと後に書き足したであろう)第一巻のだいぶエキセントリックな記述を元にして、江戸時代の『甫庵信長記』などでそれが増幅されたものだ。あくまで同時代史料から見える彼は、既存の仕組みを尊重し、自身に所縁の深い神社の保護など旧来の宗教組織にも配慮をしている。ただおそらくは、オーバーワークによる配慮不足や、中央にいた訳でないことによる常識の無さから、時に地雷を踏み抜いて相手をドン引きさせたり、同盟相手と決裂するというケースが少なからず見られた、という感じである(念のため言っておくが、これは信長が「魔王」とは正反対の「とても良い人だ」という単純な話では全くないので悪しからず)。ちなみに本能寺の変の段階では、そもそも信長は引退して息子の信忠が家督を継承しており、実際には信長が影響力を行使しながらも、息子に経験を積ませて安定的に政権運営の移譲を成し遂げる、という体制の過渡期であった。つまりそもそも、「誰が信長の後を継ぐのか?」が問題となって家臣団内で競争が煽られているという本作冒頭の前提自体が成立しない状況だったのだが😅

 

はい、とまあそんな感じですかね。自分がそもそも武士のイメージやその変化について批判的に色々調べてきた人間でもあるので、目新しさは感じなかったけれども、とかく忠義や勇猛さなどが強調されがちな作品群の中に配置すれば、多くの人に見られる価値はあるんじゃないかと思う映画だったと言えるだろう(まあ全体として武士の残虐さや悪辣さを強調する作品にしたら、人気が出ないしタレントのキャリアとしても困る、的な計算もあるんだろう)。

 

というわけで、今後の時代劇に影響を与えうる作品だとは思うので、興味がある方はぜひどうぞ。


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