「教養」とは何か:知の体系化、「ファスト教養」、コスパ

2022-09-29 11:21:21 | 感想など

『映画を早送りで観る人』の続きを書こうと思っていたが、ちょうど次の毒書会の話が出て「教養とは何か」というテーマになったので、関連する記事としてこちらを先に掲載しておきたい。

 

明確に言語化できているわけではないが、自分の中で「教養」、というか「教養がある」という基準には極めて高いハードルが課せられているように思う。その要件としては、

1.知識が極めて有機的に体系化されていること

2.その体系化された知がその人の佇まいにも反映されていること

の二つだろうか。

 

ゆえに例えば「大航海時代」なら、関わった主要な人物や事件は言うまでもなく、その成立背景や社会的影響まで幅広く理解していることが必要で、当時の食料事情に基づく香辛料の需要、カーリミー商人の活動(これはむしろレパント貿易の話)、オスマン帝国の存在、羅針盤の導入、対数(log→航海日誌→blogやvlog)、宗教的世界観の相対化、絶対王政の経済的基盤(重商主義政策と官僚・常備軍の維持)、植民地拡大(後の帝国主義などへの影響)、大西洋岸の経済的発展(絶対王政と市民階級の成長→市民革命の基盤)と穀物供給地としての東欧(農奴制の温存など中世的構造の温存→啓蒙専制君主が現れる背景&近代化の遅れ)etcetc...さらに今述べた諸々の事柄が他の事象といかにつながるかも理解・説明できる・・・という具合に知がモジュール化されているような状態である。

 

そしてこういった事象の知識は、言うまでもなくキリスト教徒がヨーロッパの外側で非キリスト教徒をどのように扱ったのか?であったり(「我々」の境界という意味で、ナショナリズムやファシズム理解ともつながる)、あるいは宗教的世界観というものがどのように相対化されうるか(異文化交流や科学的検証)という知見につながるため、それらは取りも直さずその人の思考態度に深く影響を与えずにはおかないだろう(逆に、もしそうでなければ、それらは知識という名の断片がただ浮遊しているに過ぎない)。

 

その意味で言えば、「教養がある」という言葉で自分が連想するのは海外ならアリストテレスやヴィトゲンシュタイン、日本なら小室直樹のような人物である。言うまでもないことだが、無謬な人間など存在しないので、彼らも様々な誤認や失敗を犯してきたのであり、そういったものに対する態度もまた教養の一部とさえ言えるかもしれない・・・という意味では「知性」という言葉を用いた方がより理解しやすい部分があるかもしれない。

 

ちなみに、自分が高校での古文やら漢文やらの学習について述べる(かつて述べた)時の水準もこれに基づいている。一体古文や漢文が「読める」とか「読めるようにする」とはどういう状態を指しているのか?例えば、日本語話者の中には、知性を持つ洗練された佇まいの人もいれば、品性下劣な人間もいるということについて、同意しない人間はいないだろう。「英語が話せる」というのも同様で、そこには実に様々な人間が存在する(まあノンネイティブがある言語を流暢に話せるようになるには、それなりの時間やお金の投資が必要だから、「英語が話せるノンネイティブ」という時点である程度のフィルタリングが機能する、という点には同意するが)。

 

「言語は道具でしかない」というのは言い古された話だが、話す中身もないのに言葉だけ知っていても無意味だし、register(TPOなどを踏まえた言語の使用域)などを適切に理解していなければ「知っていても相手に適切に伝わらない」ことも少なくないのである(ここにおいて、京大が少し前に出題した「奨学金を申請するために丁寧な英語で手紙を書け」という課題を思い出すのも有意義だろう)。

 

さて、今のような話を踏まえた上で、古文や漢文が「読める」とか「読めるようにする」とはどういう状態を指しているのか?と思うのである。それが「春は曙。やうやう白くなりゆく山際~」と聞いてそれを『枕草子』だと(あたかもカルタのように)答えられることか?あるいは学習した文法事項に基づいて、ごく一部なら逐語訳できるということか?それを「教養」と考えて(今のシステムのまま)古文や漢文を高校でもやるべきだというのならば、おそらく教養というものに対する基準が私のそれとは違うのだろう(先に述べた「知の体系化」という私の水準で言うならば、それは申し訳程度の現代語訳ができたというだけに過ぎず、教養とは程遠いものである)。

 

とはいうものの、よほど現行のシステムをドラスティックに変えない限り、主要な古典はおろか、一つの作品すら体系的に鑑賞する時間を取るのは困難であろう(そもそも、世相が昔から大きく変化している以上、プログラミングなど他に学ばなければならないことも多いので、いつまでも同じ配分を続けることはできないし、仮にそう思っているのであれば「頽落した権威主義」の発想になっていないか自己検証した方がよいだろう)。であるならば、先の例で言えば『枕草子』と『紫式部日記』の抄訳を取り上げ、当時の宮中生活の様子と合わせて、才気煥発な清少納言と、聡明だからこそ本心を奥に潜めた紫式部を対比的に理解する(小気味よい前者の文体・内容と、異常とさえ言える観察眼をもった後者の文体・内容とに端的に表れてもいる)ことの方が、よほど体系的な知の構築に資すると少なくとも私は考えるのである。

 

なお、今述べたような教養などの話に関して、「で、当のお前はどうなんだ?」という疑問が当然投げかけられるだろう。まさしくその通りで、齢40を過ぎておそらく(あるいはとっくに)人生の折り返し地点は過ぎたものの、「日暮れて道遠し」の言葉のように、自分の考える基準に対して私は遥か及ばないところにいる(むしろこんなことも知らずに今まで生きてきたのか、こんなちょっと考えれば疑問に思えたものを放置してきたのか、と己の無知を痛感する日々である)。しかしそうだからこそ、現状に満足・慢心することなく、日々研鑽を積んでいかねばならないと思うのである(これは「ダウー先生に見る有能さと冷厳さの話」の内容と関連するところが多い)。

 

・・・とまあ今のような発想を踏まえつつ、『ファスト教養』なる書籍にプラスアルファで「教養」について議論する毒書会となるだろう。ただ一番の問題は、「教養」そのもののカテゴリーに関する見解の一致・不一致よりもむしろ、(ここで冒頭の『映画を早送りで観る人たち』にもつながるのだが)それとは乖離し続けるであろう現実にどう掉さすのか?という問題だと考えている。「咀嚼して自家薬籠中のものとすべき教養を、単なるコスパの領域に貶め合理性でしか考えないなどけしからん!」といった具合に憤るのは大変結構なのだが、「で、どうするの?」というリアリスティックな対応策を考えるのはそう容易なことではない(ここで以前述べた行動経済学などの話も関係してくる)。

 

さらにここで参照項としてオルテガの『大衆の反逆』やブルデューの『ディスタンクシオン』を持ち出すのも有益だが、まずは現実的な話として、「暇」があまりに少ない現代人(アリストテレスの古代ギリシアとは極めて対照的)というテーゼに触れた動画を掲載しつつ、この稿を終えたい。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三方五湖の絶景 続:予定調... | トップ | ♰ Not at all ♰ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

感想など」カテゴリの最新記事