フラグメント114:再帰性、メタ視点

2011-06-14 18:09:54 | フラグメント

昨日のフラグメントはひぐらし関連だったが、こっちは「沙耶の唄」などディスコミュニケーションの不可避性に絡む話で、それに連動して再帰性の問題にも言及している。レコーダー云々の下りは、相手にレディネスがないし襟首つかんでそれを作らせる意思がない以上、ここでするような話は日常会話でするのは時間のムダだという意味。あとは、なぜか男の娘関連が多いwなんせabgrundは二回連続で題名に書かれていて、一体ナニがあったのか謎であるw「まあ『欠損娼年』とかに比べれば安パイじゃね?」なんて思うようになった神化ぶりが我ながら恐いっすw

 


<否出腐、亜蔑屍>
ネタは前提があって成立する。とすれば、言葉どおりにしか受け取れない(戦略性が理解できない)人間が多すぎるのは、前提が共有できない経験と、前提を共有すべく思考・議論しようという姿勢を持てない事が関係しているのかもしれない。


復活の呪文
このような記事を書いていて思うのは、もし私が凶悪犯罪を犯した時、これが狂気の萌芽として扱われるであろう、ということだ。狂気を風景にして自分達をまともの側に置こうとする輩の、あるいは結果から逆算するだけで物事を知ったように語る輩の傾向は、ことほどさように読めすぎてうんざりさせられるものだ。とはいえ、このような記事を書く自身の女々しさもまた認識せざるをえないが。さて良識という名のずだ袋に身を包んだ者たちは一体いつ夢から覚めるのだろうか?そして一体いついい人というカテゴライズが何の保障にもならないと気付くのだろうか


ルワンダの涙休暇接吻
昔話をする意図は三つある。来歴を明示、時代性…おいおいここにきてメタフィクションかよ。え、これフィクションだったの?いやフィクションというかドッペルというか足音がもう一つというか。


<未収金>   「ディスコミュニケーションの不可避性
あの時は踏み込まなかったのに、なぜ今更問題にするの?時代錯誤な認識とか言ってたから、あそこで喋っても単なる個人攻撃と受け取られるとだけでしょ。すると、実はかなり一般的な思考様式だということが伝わらない。コミュニケーションの不可能性に対する意識、あるいは断念がない。「調和」と同根。ムラ意識とズブズブの寛容さ、あるいは単なる無関心のコラボレーション。


吉村昭蛍中公>  
昨日自分が感じたおもしろいという感情と、今自分が思い出してるおもしろいという感情が同じだという証拠はどこにあるのか?そんなものはない。だったら、あるのは「同じだという解釈」だけなんじゃない?ヒューム、物自体、現象界、言語ゲーム、「帰納と演繹」、「共感」。


<5/1飛行機、5/5飛行機>  「『調和』と『地雷』
実存を論じること自体はいい。ただ問題は、「実存というものがそのように語られる、語られうる」背景を考える視点があるかどうか。丸山真夫の焼直し?「どうせ変わらない」と言いながらパフォーマティブに裏切っている。理念の問題ではなく、身近な問題。だから「生活」カテゴリー。季節が変わっても衣替えしないようなもの。んで合わないんですけど~と言ったら「心頭滅却すれば~」的意味不明な感情論。

 

<abgrund>
大学時代は「オナニーグッズ」を開陳するのが馬鹿馬鹿しい。で、人間に興味が無い、目が死んでる。ただまあ何の気兼ねもなく生きていたので、一番楽しかった時代ではある。


<abgrund、マグノリア…もや、なる>
レコーダー片手に…オナってろと?もう一つ含みがあって、相手に通じなくても自分の糧になれば無意味じゃない。会話はそれすらないから不毛。レコーダーやブログなら蓄積と改良ができる。

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