沙耶の唄:泣きゲーへのアイロニー?

2011-06-08 18:12:01 | 沙耶の唄

虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」に続いてキャラの受け取られ方について話すつもりだったが、こいつがなかなか難航しそうなので元の順番に沿ってレビュー(?)を掲載していこうと思う。


原文にもあるように、本来は(次回掲載する)「二項対立と交換可能性」という記事で作者が主人公主観のもたらすプレイヤーへの影響の大きさを過小評価していると話し、さらに沙耶の側と人間の側の交換可能性(等価性)を強く意識させる原作のエンディングの「失敗」を論じるという構成にするはずだった。にもかかわらずこんな回りくどい話を挟んだのは、私自身が作者の発言と作品内での演出方法のギャップが大きすぎてどうしても納得しきれない部分があったからだ(あえて言えば、自分を納得させるために書いた記事てこと)。まあ最終的には、作者が「理性も狂気」と言ったり排除の病理を論じながら「境界線の曖昧さ」であるとか動員の構造、あるいはコミュニケーションのあり方というものを(実践的なレベルで)全く理解できていないことを露呈していると結論するに到るのだが(だから作者の発言はクリシェにすぎないと言うわけ)。ま、これだけじゃ難癖つけとるようにしか見えない人がいるかもしれんので付け加えておくと、クトゥルフがどうとかコズミックホラーがどうとか言うのもいいが、ウルトラマンとかゴジラ、仮面ライダー、ガンダムなどでの怪獣や敵の扱い方(等価性)にまるで言及しとらんので、メタ視点っぽい言い方をしながら結局自分の趣味の殻に閉じこもってるだけなのがまるわかりで痛々しいぜよ、という話(しかし、閉塞した想像力というものは往々にしてそのような精神構造ではないかとも思う→「終末の過ごし方」の受容の仕方から見えるもの)w

 

なお、最後に書いてある「泣きゲー」云々の話は、「さよならを教えて」のレビューでも触れたが、要はコミュニケーションの不可能性や独善性といった手垢のついた問題を、どのような形式で表現し受け手に感得させるかということ(人間という名のエミュレーター)。全体的な承認が欲しいのなら、自殺するかヤクをきめるか、はたまたLCLに溶解(笑)するしかないわけで、まあとりあえず風俗行っとけば?と言いたいとこだwつまり、「全体的な承認」という幻想から解放されなきゃにっちもさっちもいかんぜよてことねw

 

<原文>
「虚淵の期待とプレイヤーの反応の齟齬」から続けて視覚依存度の話をするつもりだったが、ここで一つ記事を挟んでおくことにしよう。


以下の内容は、「虚淵玄(作者)のインタビュー記事は韜晦ではないか?」とする疑問・反論を想定したものとなっている。ただ、前回及び今回の記事の最後でも書いているように、その可能性は極めてゼロに近い、というよりゼロである。そう見なす根拠は三つある。


<根拠その1>
設定資料集のP96で奥涯の家を郁紀が訪ねるシーン(Scene4)の説明で、虚淵が「もうこのあたりですでに、お客さんは郁紀が主人公だと思っていないでしょうね(笑)。また正気の側にいる人間で、郁紀の秘密に踏み込んでいくような探索者、それが耕司です。」と述べていることからも明らかだ。つまりこれは、作者が郁紀・沙耶を異物の側として強く認識しているだけでなく、プレイヤーもまた耕司の側にあっさりと乗り換えるであろうと考えていたことを意味する。プレイヤーの「恋愛もの」という評価が多数(=郁紀・沙耶の側に引き込まれた)だったのを知った上でなおこのような発言をするということは、郁紀・沙耶=「異物」という認識が(今もなお!)作者を縛り続けていることを如実に物語っている(この部分については、虚淵言うところの「排除=狂気」的な観点からいずれまた触れることになるだろう)。


<根拠その2>
109Pにおいて作者はエンディングについてコメントしているのだが、そこでは郁紀たちが生き残るエンド(“ENDING03”と表記されている)を「娯楽作品としてはありえないエンディング」と述べている。これは、その直後に「一本道だったら、あれはやっちゃいけないと思う」という発言があるので「単一のエンドとしてはありえない内容」と読むべきだが、P99の沙耶が開花するシーン(Scene17)のコメントでENDING3を「バッドエンド」と位置付けていることも含めて考えれば、価値転倒によって郁紀・沙耶の側を耕司・涼子の側より優位にする意図がなかったのは無論のこと、両者を交換可能なものとして演出することさえ狙っていなかったと結論せざるをえない。


<根拠その3>
後の<草稿>でも述べるように、「泣きゲー」のアイロニーとして沙耶のビジュアルを設定したため、それを本音で書くと読者の反発を招いてしまうためあえて触れなかったというかなり穿った見方も不可能ではない。しかしながら、沙耶の唄が「恋愛もの」と認識されたもう一つの要因、すなわち視覚依存度の問題(郁紀と耕司の視点を同じように描いた)についても(全く反発される余地がないにもかかわらず)作者が何も触れていないことから考えるに、「泣きゲー」のアイロニーを意図していたから沙耶のビジュアルや「恋愛もの」という誤読に踏み込まなかったのではなく、前者については計算しておらず、それゆえ後者についても単に戸惑っただけと解釈するのが妥当である。


以上三つの根拠より、改めて繰り返すが、インタビューの記事は、たとえそれがどれほど本編とギャップのあるものと感じられても、韜晦などではなくてそのまま信じるべきと言えるのである(ちなみに[インタビューが]捏造ではないか?という視点については触れていない。というのもその場合、本当に捏造かどうかを検討するよりもむしろ、なぜ捏造まで疑うのかと自分の精神構造[作者への過大評価など]について内省する方が先決だと考えるからである)。以上のことを踏まえて、以下の内容を読んでいただきたい。

 

<草稿>
インタビューを見る限り、虚淵の発言は「自分は~という文脈で作品を作ってきたのに、どうもそれが思うようには理解されていないみたい。まあ誤読はされるもんだけど、でも何でそんなんなっちゃったのかなあ。わからんなあ。」って風にしか読めない。だからああ書いた。まあ何と言うかエロゲープレイヤーに自分を投影しちゃっているのかもね。

もしかすると、前回の内容に対して、「そういう風潮に対する反発が沙耶の唄っていうゲームの形で結実したんじゃねーの?」などと言う人がおるかもしれん。もし彼がインタビューの中で次のように発言していたら、俺もそれに同意するに違いない。

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そう、当時「泣きゲー」ってのが流行ってたんですよ。正直自分にとってはオイオイって感じでしたね。だから沙耶をあえて少女として描いたんですよ。沙耶は無垢で可哀そうな対象に見えるわけですが、それは認識の転倒によって作り出されたものに過ぎない…そういう構図を打ち出すことで、「萌え」とか「泣き」といったものを相対化したかったわけです。でも結局、沙耶の唄は多くの人に「恋愛モノ」として受け取られたわけで、これはつまり「沙耶が実はグロテスクな怪物である」という視点がプレイヤーに共有されなかった、もしくは軽視されたことを意味します。要するに、そのような価値転倒によってシニカルに「萌え」や「泣き」の奇怪さを抉り出そうとする試みは、沙耶にベタに「萌え」られたことによって、あるいは(それが人間の模倣ということを示したにもかかわらず)沙耶の孤独感や承認願望がベタに共感されたことによって、結局失敗してしまったわけなんですね。だから、正直沙耶の唄を「恋愛モノ」と当たり前のように言われるのは正直妙な感じがするわけですよ。
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でもまあkeyユーザー敵に回すの面倒だし、書き辛いわな。だから、あのインタビューが韜晦の可能性も完全にゼロではないわけよ。まあつっても部分的な話だけど。


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