沙耶の唄~「純愛」という名の・・・~:年末大掃除其の9

2017-01-06 12:37:18 | 沙耶の唄

今年も終わりですねー。まあ私は普通に朝から晩まで仕事ですけど何か(゚∀゚)アヒャ

ちなみにここで書いていることは、単に沙耶の唄で描かれるものが「純愛」ではないという話ではなく、そもそも人間のコミュニケーション自体がただの蓋然性の産物に過ぎないという話である。そのような事実が、人工知能の発達の中でどんどん剥き出しになっていき、全てがそのようなものとして定義されるのか、あるいはそれゆえにこそ還元しえないものが残るのか、それを見るのが私の生きる楽しみの一つである。

 

 

 

 

【原文】

しかし一方で、この作品に描かれているものが「純愛」であるという意見に関して、私は首肯する事ができない。

必然性は理解できる。特に大きいのは、沙耶が少女のビジュアルに見えるように改造したにもかかわらず鈴見にレイプされたことで、あなた(郁紀)だから私を受け入れてくれた、という固有性が強調されていること。元の知覚を取り戻したにもかかわらず、沙耶との間にカタストロフは起こらないというエンディング1。

 

沙耶をあえて出さない演出。幻想を温存しつつ、カタストロフの確信も壊さない。換言すれば、双方の視点(立場)に対応できる演出がなされている(書いてて本当に計算してねーのか?と思ってしまうが)。作者の気配り。改造された楊のビジュアルは耕司との対面で見れるにもかかわらず、沙耶はない。また沙耶も楊も共通だが、怪物の視点はない(内面は描かれない)。これは作者の言う「エミュレーター」的な設定との兼ね合い。プレイヤーにとって沙耶の幻想を維持するのが目的だったと推測しているが、それが思わぬ効果をもたらした。

 

しかしビジュアルが変わっても態度を変えないというのなら、耕司たちへの態度の変化であるとか人間のビジュアルになった楊への態度変化は全く説明できないではないか。これは作者もきちんと自覚していて、あからさまに郁紀へ楊を殴るようけしかけて困惑させる描写を入れている。

まあこれは同じ人間同士で殺し合ったりすることを考えれば別段不思議でもないことなのだけど。

言語ゲーム的な世界、真理の合意不可能性、恋愛ゲーム、吉幾三問題

境界線の曖昧さ

「人を殺してはいけない」決定的な理由などない。

そういう認識があると人間社会の存続にとって便利なだけだ(機能の問題)。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「異端」とは何か:年末大掃... | トップ | 「ブラック~」を延命させるもの »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

沙耶の唄」カテゴリの最新記事