沙耶の唄:disillusionの内包

2011-06-28 18:57:04 | 沙耶の唄

本来なら「沙耶の唄:エンディングの『失敗』」という記事の続きを書いていく予定だったが、あえて古いレビューを掲載しておきたい。というのは、前掲の記事において、私がいかにして「沙耶の唄」という作品に境界線の曖昧さを見るようになったかを同時代的に説明しているが、以下の記事もまた当時の雰囲気をよく伝えるものだからだ(まあ掲載時期が2005年11月末であり、初プレイから3カ月程度しか経過していないのだからそれも当然だろう)。


沙耶の唄に関するレビューを書く際に、向かいやすい方向が二つあるように思える。一つはリアリズムという視点からの分析(これはYou Tubeの外国人の書き込みに多い)、そしてもう一つは黒魔術や沙耶の由来などの設定考察だ。そういった内容面での分析はいくらでも垂れ流すことはできるだろうが、私にはほとんど興味がない(このことは、灰羽連盟の再考を書く際に灰羽世界の分析をあえて脇に置き「なぜ灰羽連盟の実存の描写が受け入れられたのか」という問題設定で演出方法へ焦点化したことに端的に表れているし、「ひぐらしのなく頃に~とあるプレイヤーの証言~」も同じだ)。


そうはいうものの、交換可能性や境界線の恣意性の問題を繰り返し扱う中で、読者諸兄の中には私が後付け的な抽象思考をしているだけだと感じている人も少なからずいるだろうと考え、動的な視点を強調しておきたいと思う次第である。


さて、「作者のナイーブな期待と認識」の中において私はアンビバレンスな認識が内省と気付きをもたらすと書いた。それは具体的にはどういうことなのだろうか?私は沙耶の側へ親和的になる必然性を説明するため「二項対立と交換可能性」を書いたが、ならば気付きの構造はいかなるものなのか。全てを見終わった後で様々な思考を経なければ得られないものなのか?そうではない。というのも、以下に述べるような沙耶の「邪悪さ」を描写することによって、dis-illusionの契機さえ作品内に組み込まれているからだ(しかもそれが抽象的な問題だけでなく具体的に物語を駆動する様々な必然性をも準備するものとなっている点で極めてすぐれた演出と言える)。ゆえに、沙耶の孤独や承認の希求(の描写)によって盲目となっていなければ、瑶への残酷な仕打ちが没入の妨げとして機能し、アンビバレンスな感情が喚起される(ただし、多くのプレイヤーにとって沙耶の行動がそれほど不自然に思えないくらい「洗脳」がキマッてしまっている点にも注意を要する)。ここで生まれた違和感の萌芽が転倒したエンディングへの反応によって顕在化し、そのことが内省と気付きをもたらすのである。


以上のように、沙耶の唄はそれ自体が境界線の曖昧さ・恣意性を自覚させるゲームとして完成(完結)していることを強調しておきたいし、またそれゆえにこの作品を作者の意図に反して「恋愛モノ」と捉える人が多いのは、何ら不自然なことではないと言えるのである。

 

<原文>
Nitro+より2003年に発売されたビジュアルノベル。このゲームには、全く無駄なところがない、と言っても過言ではない。そのことを一つのイベントを例に挙げて説明してみようと思う。なお、本記事は一回プレイした人を対象としている。これからやるという人は、ネタバレを多く含んでいるので他を見ることをお勧めする。

 

(具体例)
瑶が沙耶に改造されるイベント


(イベントの前提)
鈴見(=隣のおっさん)が脳だけ改造された。ここで沙耶の孤独感が提示されている(=沙耶の側に感情移入させようとしている)ことも重要。
 

(イベントそのものの意味)
■沙耶の愛…もう迷うことのない郁行に対して。

■沙耶の(暗い)愛情に基づく邪悪さや嫉妬。
=前のイベントによって、プレイヤーの中では沙耶が偶像化されている可能性がある。それとバランスを取るために、沙耶の側のマイナス部分を提示し、沙耶の側に滅びる必然性を与えている[「沙耶の唄」においては、このバランス感覚が絶妙である。その一例は複数視点の導入]。今までは、青梅の事例のように沙耶の側にも自衛、生活といった人間に対する攻撃の必然性がそれなりにあった。しかし、瑶の場合は沙耶の嫉妬による完全なとばっちりである。

※ちなみに、これだけの[狂気もはらんだ]愛情を念頭に置くと、郁紀が人間世界へ戻るエンディングでの沙耶の振舞が重みを増してくる。彼女は(狂気をも招きかねない)自らの孤独感を犠牲にしても、郁紀の願いを叶えてあげたかったのだと言える。ちなみに、私はここで郁紀が殺されると思っていたので、予期せぬ展開に面食らった記憶がある。     

■沙耶の人体に対する知識及び改造テクニックの増進
…鈴見が脳だけなのに対して、瑶は全身が改造されている。この改造によって、さらに沙耶の知識・改造テクは向上したと考えられる[この時の改造には沙耶自身が予想しないくらい長い時間がかかっていることを想起したい]。これが、最後の「出産」に対する伏線であり、またそれに時間的な必然性を与えているとも言えよう。

■瑶が消される必然性
この時点で、郁紀には瑶が消すべき存在となっている。沙耶が手を下さなくても、いずれ郁紀の手にかかったことであろう。


(その後の展開との絡み)
■耕司、狂気の階段へ
改造された瑶を、耕司はそれと知らず殺すことになる。この後、郁紀の襲撃や沙耶の奇襲といったことが続くが、耕司が手にかけたのは唯一瑶だけだったことは重要である。耕司自身は気付いていないが、プレイヤーと郁紀は耕司が揺を殺したことを知っている。この点で耕司とプレイヤーの認識にギャップがあるが(それはそのまま揺に対する耕司と郁紀の感情のギャップである)、耕司が狂気に蝕まれる入口の役割を果たしたことは確かである。


以上、部分的ながらイベントの構造を説明できたと思う。このように沙耶の唄では、ほとんどのイベントが前後の展開に対して二重・三重の必然性と意味を持っているのである。もはやその完成度は神域にあると言っても過言ではないだろう。

もしこの文章を読んで少しでも思うところがあれば、是非再プレイしてほしい。必ずや新しい発見があるだろう。沙耶はいつでもあなたのことを待っている(?)。 「ぼがえり゛なじゃい。フ゛ミ゛ノ゛リ゛」

※がぞうのじょざぐげんはNitro+に゛ぞぐじまず


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