沙耶の唄:他のニトロ作品との比較

2011-06-26 18:15:10 | 沙耶の唄

沙耶の唄:市場分析の欠落と誤読」の続き、というか別の視点から見たお話。繰り返し書いてきたように、「沙耶の唄」という作品には境界線の曖昧さや等価性が表現形式のレベルまで刻印されている。作者がそれを意識できてないのも不思議だが、同じような作風がヴェドゴニアにも見られるため、ますますもって不可解だ、と以下の文章では述べている。ただまあ事態はむしろ逆で、無意識なの同じ特徴を持っているということは、そういう描き方がいかに浸透しているかを示しているのだととらえるべきだろう。これはいずれ「異物との同一化傾向」、あるいは「日本的想像力の未来」の記事で書くことになると思われる。

ところで余談だが、You Tubeの「沙耶の唄」のコメント記事がなかなかおもしろい。正直リアリズムを追及してもあんまし実りはないと思うが、まあ単にアーカイブと繋ぎ合わせるだけの閉塞した想像力よりは幾分かマシじゃねーかと。というのは、理屈で言ったらそうなのに、どうしてこうも沙耶の側にコミットメントしてしまうのか・・・と疑問に思い探究することこそおもしろいと思うので。後者のような立場で「あーはいはいわかってるよ」という反応をする人間ほど、気付きの機会を逃してしまうものですよと。あなあたらし。

 

<原文>
前回の「市場分析の欠落と誤読」で批判に関する補完は完了したが、ここでは別の視点を付け加えておきたい。


もしかすると、読者の中には私が作者をコキ下ろして悦に入っているなどと思っている人がいるかもしれない。確かに一連の記事は作者への痛烈な批判を伴っているが、作者への批判を利用して本編の特徴を二項対立的に浮き彫りにする目的もあるし、さらにはインタビュー記事が本当に韜晦ではないのかという確認作業の側面もあり、事はそう単純ではない(最初に信憑性を確認したのに、なぜまだ確認作業が必要なのかは後述する)。またあるいは、インタビューを通して作者の意図が自分の予想していたものと違うことが判明したのだから、それを縫合しようという無駄な努力をやめ、評価も改めるべきだと言う人もいるかもしれない(私自身「作品を「読む」ということ」、「作品・作者、そして自分との向き合い方」などの記事を書いた身なのでその発言は理解できる)。しかしここまで論じてきてもなお、作者は沙耶を異物として(二項対立的)しか考えておらず、交換可能性を初めとする分析結果のほとんど全てが深読みだったと結論づけることには強い抵抗がある。これは作品への幻想や今まで論じた内容を護持するためではなく、ニトロプラスの他の作品を見た時やはり交換可能性(境界線の曖昧さ)が強く印象付けられるからなのだ。よって以下、ネタバレにならない範囲で他の作品の特徴について述べていきたい(なお、次回詳しく述べるが、私がニトロプラス作品で最初にプレイしたのは沙耶の唄であり、それゆえ他の作品を通じてのバイアスが沙耶の唄に影響したとは考えられない)。


交換可能性(境界線の曖昧さ)という観点で見たとき、もっとも印象的なのは「吸血殲鬼ヴェドゴニア」である。主人公はふとしたきっかけで吸血鬼となってしまうのだが、この作品で何より興味深いのは、吸血鬼、人間、そして吸血鬼ハンターという三つの視点からのエンディングが描かれているところだ。しかも、それは単に悪役(吸血鬼)の側についたバッドエンド、元の人間に戻ったハッピーエンド、というような二項対立的描き方では全くない(余談だが、この演出が、ヒロインの選択に重要な意味付けを与えている)。このことは、吸血鬼(リアノーン)エンドにおいてその立場特有の物悲しさが描かれていること(※ネタバレ注意)、そして何より、吸血鬼ハンターという言わば吸血鬼と人間の中間に位置するような立場が存在していることを想起してもらえれば十分だろう。このように、様々な視点を描くだけでなく、どれが善、どれが悪といった描き方をしていないことは、沙耶の唄における交換可能性を強く連想させる。


また「鬼哭街」のラストでは「魂」の話が出てくるのだが、それは「自我の境界線とは?」という問題を含んでいる(ここで攻殻機動隊における人形使いと草薙素子を連想する人もいるだろう。あるいは、融合した魂は一体「誰」なのか?と問うてもいい)。また、二人の「魂」を持つアンドロイドは一体人間と何が違うのか?という具合に人間とアンドロイドとの境界線の曖昧さも印象付けられるのである(そうなるとディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」などと繋がる)。


以上のような他のニトロ作品の特徴は、インタビューに見られる安直な二項対立的視点とその一般化というナイーブさと相いれず、むしろ交換可能性(境界線の曖昧さ)と親和性が高いのである。そしてそれゆえに、沙耶の唄に関しても本編から読み取れる交換可能性、あるいは等価性が単なる誤読の問題では済まされないと考えているし、またインタビューの信憑性や批判をあれだけ構築してもなお完全には斬って捨てることができない理由なのである。


とはいえ、この問題は現時点でこれ以上の進展が望めないように思える。よって次回は、当初の予定通りエンディングの「失敗」、あるいは私がプレイした状況という具体的な観点から、いかにして本編から交換可能性が印象付けられ、作者の思惑が誤読されるに到ったかを論じていきたい。



主人公はリアノーンと同じく不老(不死ではなかった気がする)となったが、エンディングで描かれるのは、変わらぬ姿の主人公が老いた人間の死を看取るシーンである。そして主人公は、その死に浸ることもなく(あるいはできぬまま)リアノーンとともに再びさすらい続ける。その時リアノーンが主人公に「これで本当によかったの?」と問いかけるのだが、これによって、死にゆく人間への優越などではなく、むしろそれらを見届けながら、なお異人として生き続けねばならない物悲しさや儚さが印象に残るものとなっている。このエンディングを見て、吸血鬼=悪であるとか、もしくは理解不可能な異物であるといったような印象を受けることはまずないだろう。異物という視点では沙耶と吸血鬼は同じ側にいるわけだが、しかしそうなると、沙耶は異物に過ぎないと考え、しかもそういう考えをプレイヤーも共有できるというインタビューの記事とこの吸血鬼エンドは真っ向から対立するように思える(自分は嫌いだが一般的な人は好きだからそういう描き方をした、という具合に作者が言っているのなら何の疑問も湧かないのだが)。とすればやはり、沙耶の唄本編から交換可能性を読み取ることを単なる誤読とは言えないだろうし、また再びインタビュー記事そのものへの疑問が浮上してもくるのである。


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