A Slow Life of Mister Masuda

定年退職後のスローライフを公開!

(39)聖ヨハネ教会堂

2007年12月14日 21時48分55秒 | 地中海紀行
(10月26日 続き)

十字軍ゆかりのマルタ共和国バレッタの街は200年余にわたって繁栄した。
その黄金時代の名残は現在でもバレッタの城内に色濃く残っている。

聖ヨハネ騎士団長バレッタによって築かれた城砦都市で
特筆すべきは歴代の騎士団長が何代にもわたって心血・財産を注いで
建築し完成させた「聖ヨハネ教会堂」。

教会の入口の壁など流石に手の込んだ精緻な彫刻で飾られている。



正面祭壇に行く前に聖者を祭った幾つかの小さい祭壇がある。



正面祭壇はバチカンのサンピエトロほど大きくはないが
煌びやかさ飾り物の豪華さは一段上だ。
金と時間を充分掛けたことを窺わせる。



天井も金ピカ。
マルタに立ち寄った十字軍兵士や
立ち寄った旅人の度肝を抜くのには充分だ。



床には大きなプレートが埋め込まれており
その下に歴代の騎士団長の棺が安置されている。



大変荘厳な教会である事は間違いない。



(38)マルタの地下神殿

2007年12月14日 21時30分28秒 | 地中海紀行
(10月26日 続き)


マルタ騎士団の集会場が今は博物館になっている。



博物館を見学したが巨石文明の展示にビックリ。
巨石文明は5000年も前から起こり
地中海ではある時期まで一番進んでいたそうだ。
展示品の巨石はマルタの地下神殿からの出土品。
ローマのカタコンベより古いそうだ。



地下神殿の巨石文明の事はガイドの説明を聞いても良く判らない。
直径2メートルぐらいのコーヒーカップのような石器がある。
一同からこれでカプチーノを飲みたいと言う冗談が聞こえて来た。



下の巨石は豊穣とか子孫繁栄を祈念している像。





それにしても巨石文明は兎も角
地下神殿とは何のことだろう。
当時は密教だったのだろうか。
ミスターマスダの勉強不足。






(37)バレッタ旧市街

2007年12月13日 09時59分38秒 | 地中海紀行
(10月26日 続き)

何と言ってもバレッタの見所はマルタ(ヨハネ)騎士団の築いた要塞。
海に面している城壁の上には今でも当時の大砲が置いてある。
とは云え内部に入れば人々の居住地、由緒あリげな建物が沢山ある。
サンフランシスコよりもっと急勾配の坂の街だ。



街の中央広場は往時の面影はなく
フリーマーケットになっている。



それと騎士団の住家。
大変豪華なアパート・マンションだった様だ。
貴族の次男・三男坊が高額な義捐金と共に
イギリスから送られてきていた。
騎士団長の許、規律の厳しい大変統率のとれた
闘争集団だったようだ。



騎士団長は絶対的な権力を持っておりマルタ島を支配していた。
騎士団長の館はその権威の象徴、大変壮大で豪華なものだ。
現在「国会議事堂」として使用されている。
通常は見学が許されているのだが本日は国会開催中につき
建物内部は見学禁止、庭と建物の周りを見るだけ。








(36)バレッタ上陸

2007年12月12日 22時38分19秒 | 地中海紀行
(10月26日  続き)

マルタの人口は40万人 島の大きさは淡路島より少し小ぶり、
首都は今我々が着岸したバレッタ。

毎年100万人の観光客。
オーシャンクルーザーも400隻寄港する。
今日はあまり観光船が多くないが2・3見受けられる。





産業も観光、船舶関連が主なもの。
マルタ島本島以外に周りにも小島があり
その島々には観光フェリーが就航しており
人気のあるリゾートとなっている。

マルタは共和国なので当然入国手続きが必要。
多少時間が掛かっているので船上より街を眺めて過ごす。
キャビンのベランダで寛ぐミスターマスダ。





サンデッキでは上陸予定のない人達が日光浴を楽しんでいる。
ヨーロッパ人は地中海クルーズを何回もやっている人達もあり
入港中も観光に行かず船内生活をエンジョーイしている家族ずれも多い。



午前10時 下船・入国の許可が下りる。
出航予定の午後5時まで旧市街地を見物して歩く事になる。






(34)マルタ・バレッタ港

2007年12月12日 18時43分50秒 | 地中海紀行
10月26日(金)

朝8時すぎチェニジアはバレッタ港沖に到着。
パイロット・ボートが迎えに来た・



バレッタの城砦都市が段々近かづいてくる。



防波堤をかわすとバレッタ港へ入港。



バレッタは世界遺産にも登録されている城砦都市。
その昔より巡礼・交易の中継地として栄え
近代でも当時英国支配のマルタ島は独逸ナチの物凄い空爆を受けた。

ミスターマスダはハンフリー・ボガードの名作「マルタの鷹」の映画を
何回か見ているのでマルタには特別の興味を持っている。

バレッタ港への入港は圧巻、
マルタ騎士団が構築した要塞をまじかに眺められる。
こんな景色が存在するのだろうか圧倒される。
夢中でカメラのシャッターを切り続ける。







バレッタ港風景 次に続く




(35) (続)バレッタ入港

2007年12月11日 22時30分51秒 | 地中海紀行
(10月26日  続き)

港を取り巻くように要塞が聳え立っている。
港は当時 相当大きなスケールで構想された筈だが
マルタ騎士団の団長も300メートル近い大型船が入港してくる事は
流石に想定していない。

港内で方向転換して着岸するのは中々大変。
ゆっくりゆっくり船は進み漸く埠頭に着岸した。
見事なパイロットの腕前だ。











バレッタ港内の風景は終わり。
いよいよマルタ島上陸。


(33)カルタゴ

2007年12月09日 18時13分19秒 | 地中海紀行
(10月25日  続く)

ここはカルタゴ、今は高級住宅地になっているが
所謂[古戦場]なのだろう。
文明の興亡を肌で感じられる。
ローマに攻め落とされローマ人が侵入して来た時の遺跡が、そこかしこにある。



海の眺望が見事、攻めて来るローマ軍をここでハンニバルが迎え討ったのか。
ローマに一番恐れられた男ハンニバル。
カルタゴ帝国内部のの枢機卿達の日和見・裏切りがなければ
ハンニバルがローマ史を書き換えたかも知れない。



観光バスは港に帰ってくる。
丁度日没だ。
芸術写真をひとつ。



夕食は再び「クラブ・コンコルディア」前回行って気に入っている。
ツアコンのSさんよりアペタイザーに寿司の差し入れあり。
この船には日本食レストランはないがシェフが見よう見まねで作ってくれた。
「本わさび」を使っているし教えられたレシピを完全に守っているのだろう。
結構美味しいと思った。
言葉の賛辞も必要だが何事もチップ・チップ、チップをはずみました。

結構いけました。

船は既に岸壁を離れマルタ島に向け出航。



ロビーに出た。乗客はイタリア人、ドイツ人、フランス人(アフリカ系も結構大勢)

「ボナセーラ」
「グーテンターク」
「ボンソアール」
「アシタマニアーナ」
色々な言葉が飛びかっている。

今回のクルーズではアメリカ人はマイノリティ。


10月25日はこれで終わり。



(32)青色の扉

2007年12月08日 17時20分50秒 | 地中海紀行
(10月25日  続き)

港の反対側にあるのがカルタゴの街だ。
今は高級住宅地となっている。
カルタゴの落日とか泰西名画で想像していたカルタゴとはだいぶ違う。


この土地独特の白い石の建物に青色のペンキ塗りの
ドアー・窓枠が印象的で記憶に残る。
チェニス港の倉庫のドアーは大変カラフルだったがここは青一色。
この村の特徴との事。
前にも書いたが「青色は虫除け」の効果があるそうだ。

クレオパトラの青いアイシャドーも虫除けだったとはミセス・マスダの学説。



村の中央には大賑わいの喫茶店がある。
水タバコも呑ませてくれる。
正面の階段の上である。



この喫茶店を描いた絵皿を記念にゲット。



この街のスークでは遊牧民ベルベル人の壷を購入。
粗い土を低温で焼いた素朴な壷である。
ベルベル人は遊牧民だそうだ。
本物のベルベル人の壷は海外に持ち出し禁止。
ミスターマスダの買った壷はレプリカ。



オーダーメイドの香水を作って売っているシークがある。
買う気はないが女性軍が大挙冷やかしで御店を占拠。





またチュニジアのおやつの揚げパン「バンベローニ」を
名物だと進められ試食、
美味。名物に旨いものあり。



(31)カスバ

2007年12月07日 16時40分30秒 | 地中海紀行
(10月25日  続き)

今向かっている首都チュニスに100万人。
バスを官庁街で降り観光が始まる。



官庁街を「カスバ」と言うらしい。
地の果てアルジェリアの「カスバの女」は有名だが
カスバ(官公庁)にある歓楽街の女と言う意味なのか?
官公庁街を抜けると旧市街スーク。





シークのひと隅にはひなが一日「水タバコ」を吸っている人達がいる。
水を通してタバコの煙を吸うのでニコチンが少なくなるのだろう。
健康的なタバコなのだろうか。
今回の旅行中に一度試しに吸ってみたい気もする。



このシークは、まるで映画[知りすぎた男]の舞台のようだ。
ジェームス・スチュアートとドリス・ディーの気分で
雑踏のスーク市場で陶器の皿の価格交渉をする。

突き当たりの凱旋門の向こうは新市街地 
フランス時代の建物が残っており当時の隆盛が偲ばれる。






(30)チェニジア国

2007年12月06日 16時09分49秒 | 地中海紀行
(10月25日  続き)

我々の船「コスタ・コンコルディア号」を運行しているコスタ社は
地中海を中心に大型豪華客船12隻で観光クルーズを行っている。

勿論コスタ社の観光船が着く港々にはコスタ社の
観光バスが大挙待ち受けている。
船のスケジュールに合わせての観光なので
他の会社の観光バスは利用しにくい。
殆どモノポリー、料金も割高だがノー・チョイス。

今日もコスタ社のその観光バスチェニス・カルタゴの観光へ。




埠頭の倉庫の扉がカラフルなのが印象的。
青い色は虫除けだそうだ。
地元の民族音楽を二人の楽師が奏で侘しく我々を歓迎してくれる。



観光ガイドはチュニジア人。まずまずの日本語。

チュニジアの人口は1000万人 産業の第一は農業 オリーブ、穀物特に麦。
続いて鉱業、石油。

バスは港の一部となっている運河沿いに上ってゆく。



建設中の橋、大成建設が建設している日本・チュニジア友好の橋だそうだ。
スエズでも両国友好の橋だと言って「ナセル大橋」が有ったけ!


この間 日本のTV「ウルルン」と言う番組で、ここに働く
日本人技術者の御苦労話を放映していた。

エピソードとして日本から行ったレポーターが苦心して「回転すし」を
日本人技術者達に食べさせる番組。

食材調達の苦心、回転ずしの装置の組み立て
全ての準備は日本人技術者達には内緒で
突然のサプライズを与えるという趣向。
結構感動的なシーンだった。

そのことを現地の人にお話すると、その番組はこちらでも放映され大変有名。
あれはヤラセでも有名と一言、素直じゃーないね。



街には大統領の肖像画が目立つ。
2009年に大統領選挙がある為らしい。






(29)チェニス入港

2007年12月05日 21時39分08秒 | 地中海紀行
10月25日(木)


午前中は船内で休息。

チュニジア・チュニス港入港は午後1時。

チュニジアは日本の本州の3/4、
シシリー島に近いアフリカ。

ハンニバルのカルタゴ帝国として泰西名画に
よく描かれているので興味があった。

アフリカ大陸チュニス港に近がずいてきた。
海岸線に白い家々が見える。

海が濁っている。汚染がひどい感じだ。鴎がいっぱい、
長閑にちっぽけな漁船が三艘ほど漁をしている。
地中海でもヨーロッパ側とアフリカ側では
海洋汚染に関して熱心度が少し違うのかも知れない。



漁港と隣接しているがヨットは1隻も見られない。



今クルーズで一番質素なオーシャンターミナルだ。


矢張り此処はアフリカ側か。

着岸してターミナルを見渡せば通関待ちの夥しい数の車、それも殆どが中古車。



我々の船の着く岸壁には大きな倉庫がある。
ドアーがカラフルに塗られている。
青い色は虫除けの色でチェニジアの蝿は青色が嫌いらしい。

その倉庫の裏手に今日我々の乗る観光バスが横付けされている。
それも半端な数ではない。
40台はあるだろうか?



下船すると此処は沙漠の国でもある。
早速駱駝と記念撮影。






(28)ディスプレー

2007年12月03日 21時10分53秒 | 地中海紀行
(10月24日  続き)

船内には超大型のフラットディスプレーがあり
航海の情報を刻々色々と流している。









そして我が「コスタ・コンコルディア号」を所有するコスタ社は
12隻の豪華客船を地中海を中心に運航している。
それら12隻の豪華客船が今何処を航行しているか
アップトーデイトにディスプレー上に表示している。






10月24日はこれで終わり。


(27)フォーマル・デー

2007年12月02日 18時55分36秒 | 地中海紀行
(10月24日  続く)

ショパンとジョルジュ・サンドの愛の巣「バルデモッサ」観光を終え帰船後 
間もなく午後1時 船はチェニジアのチェニス港に向け出港。
チェニジアはカルタゴ 今回の旅で多いに期待している寄港地だ。

今回の旅では観光と言うだけでなく文明の興亡の跡を訪ね歴史や宗教、
人間や地球の将来も考えされている。

波静かな地中海 漸くゆっくりした船上生活が楽しめる。
サロンで「ひねもすのたりのたりかな」と海を眺めて過ごす。



昼酒が利いたかキャビンに帰ってお昼寝。

今夜はフォーマル・デー、船長の歓迎レセプション、
会場入り口で船長さんと握手。




続いて1800席の劇場で歓迎式。
現在の乗客数は凡そ3500名 なので二度に分けて歓迎式を行う。
船も大きいが歓迎式もジャンボーだ。



シャンペンの様なものが振舞われる。
船長さんはイタリア語をはじめ、ドイツ語、スペイン語、フランス語、英語と
乗客数の順に5ヶ国語でスピーチ。
続いて事務長ほか幹部の紹介。

続いてミラノ、ローマ・レストランに分かれてフォーマルディナー。
船長さん以下幹部がテーブルに挨拶に来る。
船長さん達は歓迎式に2回出席 ミラノ、ローマ・レストランに夫々2回づつ
計6ヶ所廻らねばならずお忙しい事だろう。

一方、乗客はお酒も入りリラックス、皆さんお洒落を楽しんでいる。
カジノも盛況だがあまり稼いでいる人は居ない様だ。



船内の画廊も今晩はオークションをやっている。
画廊には中々良い油彩画もある。
今日訊ねたポルトフィーノの風景画もオークションに出品されている。
幾らぐらいの値が付くのだろう。



夜中にベランダに出たら大きなお月様が出ていた。





(26)雨だれ

2007年12月01日 18時00分45秒 | 地中海紀行
(10月24日  続き)

マジョルカ島はあまり雨の降る土地ではないらしいが
幸いな事に今日は雨が降っている。
マジョルカ島にショパン滞在中の其の時も雨が降り止まず、
毎日雨の音を聞いており、それに楽想を得て
「雨だれ」を作曲したと云われている。
観光客へのサーヴィスの為か
修道院跡の博物館講堂でピアノのミニコンサート。
本日は外は雨、中々良い雰囲気だ。



専属のピアニストがピアノ演奏をしてくれる。
勿論ショパンの曲ばかりだ。
先ず「雨だれ」そして「ノクターン」興が乗って来て「スケルツオ」
憩いのひと時であった。

ショパンとジョルジュ・サンズが住んでいた修道院跡内部の部屋も
今は博物館の一部となっておりショパンの遺品などを展示している。






持ってきた愛用のピアノは輸入関税が高いので港の保税倉庫に止め置き
地元のパトロンのピアノを使わせてもらっていた。

ショパン達がマジョルカ島から帰国する際、港の倉庫に止め置きされていた
そのピアノを売って旅費にしたため
ショパン愛用のピアノがマジョルカ島に今も残っている訳だ。
ピアノの後ろの旗はポーランド?の旗。

当時有名なプレイエル社製のピアノで高価なものではあった。
ショパンもジョルジュ・サンドも貧乏だったらしい。



ショパンのデスマスクと石膏の手や初版の楽譜が陳列されている。



ショパン直筆の楽譜も並べられていたが、
楽譜が傷むといけないのでこれは撮影禁止。



(25)薬局

2007年11月30日 17時36分04秒 | 地中海紀行
(10月24日  続き)

教会の出口は修道院跡の入口に通じている。
当時そこに住んでいた修道士達の住まい・生活は質素だが
図書館などは大変充実していた。

修道士達は御互いに御喋りする事は制限されており
寡黙に日々の仕事・勉学に勤しんだとの事。



修道士達は最新の書物も読め勉強家が多かったそうだ。
従ってその当時の修道院は天文学・数学・医学・薬学など
科学的にも大変進んでいた場所だったそうだ。

薬草の栽培をしていたし修道院内の薬局の充実は当時としてはトップクラス。
近隣の病気の人達を診察し薬を処方し高度の治療を施していたと云われる。
現代で云えば総合病院だったのだろう。
利益もあがり修道院経営上でも重要な部門だったそうだ。

薬局の入口のサインは陶板の絵タイル。



薬局内部は昔のままに保存されている。





しかしその薬局で汚職トラブルがあり修道院は廃止されてしまった。

マジョルカ島にやってきたショパンは結核を病んでいたので
薬局があると云う理由で貸しマンションになっていた修道院跡に
ジョルジュ・サンドと共に住んでいたということらしい。

記念に薬局入口の陶板画の様な雰囲気の絵が描いてあるマジョルカ焼の長壷をゲット。




そして孫達には地元のオリーブの木で作ったピアノ型のオルゴールの
宝石箱をお土産にゲット。
曲は何故か「別れの曲」一曲だけでノー・チョイス。