山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

秋はきのこが気がかり

2016-10-07 20:49:28 | 食彩・山菜・きのこ
 秋空の流転の速さは、人生の短さであることをを感じ入る。
 こんなことを想ってしまうのは、やはり「後がない」焦りなのだろうか。
 毎日空を見上げる日が続く。
 「上を向いて歩く」とは、厳しい現実から希望を探す行為なのかもしれない。

                                 
 しかし、ときに「下を向いて歩く」のも希望に近づく行為でもあるのだ。
 道路端や森を歩くとよく出会うきのこがあった。
 「アマタケ」だろうか、「ワサビカレバタケ」だろうか、かたちがぐちゃぐちゃしているのでつい通過してしまう。

        
 それでも、裏の襞をみると「密」ではないので「モリノカレハタケ」ではなさそうだ。
 毒ではなさそうだが、肉が薄いので食べても旨くはない気がする。
 森は彼らのネットワークで巨大な生命体を形成しているのだ。
 そこにコンクリートを流し込むことは、命のつながりを分断することになる。

                            
                               
 その近くに微妙に似たきのこがあったが、カメラだけでは違いはわからない。
 図鑑と現物とを引き合わせなければ鑑定はできないことを思い知る。
 それでも同じものを図鑑から見つけることはけっこう難しい。

        
 イグチ科のきのこも種類が多いので時間をかけないと同定できない。
 収入につながらない「自然」への関心は、希望というアイテムを入手する手掛かりとなる。

 また、栗拾いやギンナン拾いは、味覚を広げる希望がある。
 きのこは食べられない仲間が多い雑きのこの中から、旨いきのこを発見する宝探しの「動悸」がある。

                               
 「下を向いて歩く」楽しさも「上を向いて歩く」楽しさも、要するに自分の人生をプラス思考で生きるかということにほかならない。
 目の前の厳しい現実を笑ってしまうのも必要だ。
 戦火が迫るなかでも戦国武将は「能」や「茶の湯」をたしなんだ。
 そんな余裕を「確保」するのが生きがいというものかもしれない。
 

コメント
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