山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

ストイックな人生は『虚空遍歴』を辿るものか

2019-01-08 16:54:04 | 読書

 市井の隠居から出された課題図書・山本周五郎『虚空遍歴(上・下)』(新潮文庫、1966.9)をやっと読み終える。自作の端唄で有名になった主人公・沖也はそれでも満足せず、納得のいくまで浄瑠璃節に挑戦し、波瀾万丈の呻吟を経るが志なかばで倒れてしまう。作者は主人公をこれでもかと思えるくらいたびたび主人公を追い詰めて、結局のところ打倒してしまう。大衆小説にありがちなめでたしめでたしという爽快な終わり方ではなく、読者をなかなか安心させてくれない。

         

 そうしたストイックな冲也を側面から命がけで理解・援助していた女性が「おけい」だ。小説はその「おけい」の独白が黒子となって進行していく。ただし、その独白は、女性の言葉でなく作者そのものの男言葉であるのが違和感を感じた。とはいえ、その「おけい」なくして沖也の存在はない。それは耐え難い苦難を挺した山本周五郎の母の姿そのものであり感謝でもあるように思える。

              

 こうした沖也の死に対して、「人間の真価はなにを為したかではなく、何を為そうとしたかだ」という作者の人間観を表現している。沖也のぎりぎりの煩悶と苦闘は若き周五郎そのものの姿に違いない。

 「こんな片田舎にも人の嘆きや恨みがあり、涙や耐えがたい悶えがあるのだ。おそらく、人の生きているところならどんな山の中でも、同じようなことが絶えないに相違ない。それでもみんな生きてはいられるのだ。死ぬほどの悲しみの中でも、人間は食べたり眠ったりするし、やがてはその悲しみを忘れることができる。」という述懐は作者そのものの実感だ。「そういう辛い経験に、なにかの意味があるのだろうか」と問いかけているのが周五郎文学のルーツかも知れない。

    

 さらにいえば、「人間はみんなこんなふうに生きているのだろうか、…うれしいこと、楽しいことよりも、悲しみや、辛い苦しいことのほうが多いのに、どうしてみんな生きてゆかれるのだろうか。」と、作者の心の内を「おけい」に語らせる。ここのところに山本周五郎の苦悶とそれに裏うちされた「優しさ」と庶民への連帯感が沁み出してくる。隠居のおかげで山本周五郎の世界をますます探索したくなった。

    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする