今ではひっそりたたずむ森町三倉で道標を発見。道標の正面には上の梵字に続いて「従是大日山 三里」と刻印されている。古代インドのサンスクリッド語の梵字(天台宗系は種字、真言宗系は種子という)は、その1字で仏尊の象徴を表す。この道標の梵字は大日如来を意味し「あ」と発音するようだ。大日山には真言宗の金剛院があり718年開創というから、古くから山岳信仰のメッカだった。
道標の右側には「為威験増進一山☒☒」とあり、その左は判読不明だったが調べてみると「遠江国豊田郡諸人所願☒☒」と刻印されているようだ。山岳信仰では修行によって超自然的な「験力」(ゲンリキ)を身につけられるというから、「威験増進」とはそんな意味合いがあるのかもしれない。
大日山の道標の近くにもう一つの「右春埜山道」の道標もあった。小さな字で「従是三里」とあるが判読がむづかしい。裏には「明治12年10月 周智郡向末本郷 建主髙橋萬平」とある。つまりここから大日山や春埜山へ行く山道があるということだ。春埜山には樹齢1300年と言われる巨木があり、その金剛院の社殿には立派な狼(山犬)が左右に鎮座しているので有名だ。今は曹洞宗だが以前は密教寺院であったという。
信仰の道・秋葉街道に面した三倉地域は、かつて旅籠や茶屋がある賑やかな要衝の地であったが、今はやはり静寂な過疎地となってしまった。この二つの寺院は行基の開創と言われている。行基はときの権力に公認された僧侶ではないうえに、行基集団をつくり困窮した民衆への布教・救済活動をしたため、たびたび弾圧された。けれどもそのため民衆から絶大な信頼と勢力を行基が獲得したため、当局はそれを無視できず(政権維持のため利用か)ついには最高位の大僧正に任命し、東大寺建立のため招聘していく。そうした行基の人望がこの中山間地のあちこちに残留している証左ではないかと思えてならない。