山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

明治の若き医師の無念

2019-01-16 18:36:56 | 石仏・石造物

 先日、隣の森町三倉に行ったとき、今では判読不明の石碑が路傍にあった。きっと、建立のときは立派な石碑だったに違いないと漢語らしき字面を追うが、手掛かりがない。こうした判読不明の石碑や石仏が多くて、いつもその意味がわからなくて残念に思っていた。今後その解読不能がどんどん増えるわけだから今のうちに「見える化」が必要だ。

          

 そんなことを思っていたら、その隣にわかりやすい説明版があった。それだけでも感動ものだ。それによると、三倉出身の英才・北川立平くんが東大に入学し日赤病院で外科医として活躍していたが27歳で病死したという。将来を大いに嘱望されていた様子は明治27年建立されたこの石碑じたいが滲み出ている。

         

             (画像はwikipediaから)

 彼の師匠は、袋井市出身の幕末から明治の重鎮・陸軍軍医総監の足立寛だった。足立寛は緒方洪庵の適塾に学び、福沢諭吉の薫陶を得たのち慶應義塾の塾頭にもなる。当代一流の足立寛に学びながらも若くして夭折した北川立平とその周辺の痛々しい無念が石碑に漂う。

   

コメント
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