武田軍と徳川軍の攻防があった「二俣」地区をちょっぴり歩くことになった。二俣城がその軍事的拠点とすれば、その隣に城主の住居と庭園がある鳥羽山城がある。その高台の今は公園になっているが、浜松から二俣に行く時の難所がここで、むかしは船を利用したという。その難所に、洞門つまりトンネルを掘って開通したのが明治32年(1899年)。
さらにその隣に、昭和17年に隧道を開通し、国道とする。鳥羽山隧道は車両専用道路、鳥羽山洞門は自転車・歩行者専用道路(昭和54年6月)となる。洞門には非常ベルと赤色非常灯がトンネル内の事故や事件を示すようになっている。
洞門内は蛍光灯がともっており壁もクリーム色にしてあり明るかった。もともとはレンガ造りのようだ。想像以上に距離がある。高さは2.3mというがもっと高いように見える。出口の光をめざす。このトンネルのおかげで浜松との交通とがスムーズになる。太平洋戦争中は、通行止めとなり戦車壕に転用された。
ときどき車で利用してきた狭い隧道には、人と自転車との通行禁止の交通標識が見える。太平洋側と山間部を結ぶ交通の要衝という機能はいまだ変わりはない。
戦時中は、天竜川をさかのぼって進軍する米軍に対してゲリラ戦で対応する想定だった。そのため近くに、陸軍中野学校二俣分校もあった。最後の日本兵・小野田寛郎もここで幹部として養成された。今ではそうした歴史は風化され、景気浮揚と経済成長を窺う国民総商人化となってしまった。コロナはそんな風潮を吹き飛ばし、人間のあるべき姿の原点を揺り戻した。車谷長吉が問うてきた生きるよすがを取り戻せるのだろうか。