山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

裏山につつましく咲く花

2021-04-20 20:42:54 | 植物

つい先週までは蕾だった裏山の「ヤマツツジ」が満開となった。どれも小振りで控え目な花数だ。その慎ましいたたずまいが藪の中でドキッとするほどの存在感がある。

            

花の色は赤色というより「朱色」と言ったほうがぴったりとする。園芸種のツツジはいかにも華麗で都会のセンスらしさにあふれている。しかしこのヤマツツジは思春期を過ぎた重厚な落ち着きを山里に感じさせる。

                    

 また、はじめは4~5本だった「シャガ」がどんどん増えてきて今では山のあちこちに群落を形成するほどになってきた。群落がもっと集中すればちょっとした花園となるのになかなか思う通りにはならない。それにしてもなんという貴婦人のような高貴さにあふれた花だろう。

 実際、山の杉の木陰でひっそり群落を形成している姿を何か所か目撃している。その見事さは今の季節ならではの瞬間だった。その高貴さは中山間地のささやかな誇りを秘めている気がするのは思い過ごしだろうか。

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花木を植えていく

2021-04-19 21:11:21 | バタフライガーデン

 バタフライガーデンの斜面に少しづつ花木を植えていく。ポピュラーな「サザンカ」(ツバキ科)を植え付け、これで10本目となる。原種は白花ということだが、たまたま10本とも赤や桃の多様な品種となった。やはり常緑で花をつけてくれるのが魅力だ。

                

 まだ30cmもない状態の落葉樹だが、お気に入りの「ダンコウバイ」(クスノキ科)も植え付ける。予想通りなかなか販売しているところが少なかったが何とか入手した。早春の黄色い花をつける樹木は「ダンコウバイ」とか「アブラチャン」が山に映える。成木になると葉は上部が三裂して動物の足跡みたいなうえ、樹はクスノキ科らしく香ばしい。

                

 奥多摩のとある公園のトイレに寄ったとき、「ナナカマド」(バラ科)の赤い実がじつに素晴らしかったのを想い出したので、急遽入手した。その紅葉も見事だった。ほんとうは20本くらいあると壮観なのだが財力が圧倒的にたらない。これで手元にあった花木は植え付け終了だが、挿し木で育てている樹木が50鉢くらいあるが、いずれもまだ20cm前後なので大きくなるには時間がかかる。のんびりやるしかない。      

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シオデにも種類があるが

2021-04-18 20:27:52 | 食彩・山菜・きのこ

 4月に入ってから裏の道草山から「シオデ」が三々五々に伸びてきている。「コゴミ」は一斉に出てしまうので収穫時期は短く限定されてしまう。その意味で、「シオデ」はゆっくり収穫できる。しかし、シオデには、「タチシオデ」と「シオデ」の2種類があるという。

    

 タチシオデとシオデの違いはいろいろ調べたが要するによくわからなかった。もう少し太くなってから収穫したほうが、「山のアスパラ」と言われる味覚を実感できるかもしれないが、硬くなってしまうのではないかとつい収穫が早くなる。あまり細い茎は採らないほうがいいということだ。太めの茎は「シオデ」のようだ。ネットでもタチシオデとシオデの違いは混沌としているようにみえる。

         

 「ワラビ」は優れた山菜だ。採っても採っても次から次へと出てくる繁殖力が素晴らしい。バケツ一杯くらい収穫して草木灰をまぶし熱湯をかける。それを洗ってからみりん・醤油・出汁で煮びたしするのが王道だ。わが家では冷蔵庫に入れておき10日くらいは毎日のように食べている。

 わらびは中国・ロシアから75%も輸入しているという。中山間地ならいっぱい収穫できる所があるのに、食料自給率をあげるためにもぜひ国産といきたいところだ。

       

 昨年亡くなったセニョールさんからいただいていた「モミジガサ」(シドケ)を裏山で再発見。一時消えてしまったように見えたが、なんとか復活していたので胸をなでおろす。秀吉が苦難時代を忘れないため生涯食べていたという山菜だ。独特の苦みと匂いが魅力。今年は食べるのは控えるが来年はなんとか増えてほしい山菜だ。山菜の旬は5月連休くらいでほぼ終わるが、温暖化の影響かやはり山菜の成長が早くなっている気がする。   

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台湾パイナップルを支援したい

2021-04-17 22:14:29 | 特産品・モノ

 先月に、中国当局が台湾産パイナップルの輸入をやめると言い出した。反中国寄りの台湾政権に対する嫌がられであるのは明らかだ。なにしろ、台湾産パイナップルの90%以上が中国に輸出されているからその打撃は大きい。しかし、日本をはじめ世界からそのパイナップルを購入しようという運動が広がり、今では品薄になったらしい。

 そのため行動がいつもズレてしまうオイラとしては、その運動に少しでも力になりたいとパイナップルケーキを注文する。台湾から直接取り寄せたようで手に入るのには時間がかかった。パッケージはいかにも中国らしい絵柄が描かれていたが、パイナップルと関係がないように見える。賢人らが植木鉢の花を愛でているようだ。台湾語でパイナップルのことを「鳳梨」(フォンリー)という。

             

 なかを開けてみると、パイナップルジャムを卵黄・砂糖・バター入りの小麦粉で包んで焼いたケーキだった。甘過ぎず、さくさくして食べやすい。シンプルなかたちだ。財運・幸運をもたらすという台湾語に似ているところから縁起担ぎもあるようだ。台湾土産の定番の第1位はこのパイナップルケーキだという。さて、来年以降、このパイナップルの行方は安定するのだろうか、それがちょっぴり心配だ。 

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外来スミレの仁義なき拡張

2021-04-16 22:11:59 | 植物

 浜松市春野町出身で宝塚の演出家・白井鐵造は有名な「スミレの花咲くころ」の作詞を手掛けた。

 「春すみれ咲き 春を告げる / 春 何ゆえ人は汝を待つ / たのしく悩ましき
  春の夢 甘き恋 / 人の心酔わす / そは汝 すみれ咲く春」

 そんなスミレの咲くいま、その種類も様変わりし、わが畑に外来の新参者が勢力を伸ばしている。

            

  北米原産の「ビオラ・ソロリア」というスミレがいつのまにか、忍者のようにいろいろな所に進出している。図鑑を見ても掲載されていない。青い花の大きさも葉の多さもいかにもアメリカらしい。この青花の品種は一番元気がよく「パピリオナケア」と言うらしい。

      

 同じ仲間で白花に青い筋が入った品種は「プリケアナ」。個人的にはこちらのほうの風情が気に入っているが、勢力拡大ではやや遅れをとっている。花の中央の「ヒゲ」が長い。しかもそのあたりが黄緑色であるのもおしゃれだ。

                     

 これらの「ビオラ・ソロリア」は、和名では「アメリカスミレサイシン」という。基部がワサビ状に太くスミレサイシンの根茎に似ているところから命名されたようだ。だからか、勢力抜群で野生化の道を驀進している。

      

 ここ最近またまたやってきたのは、「スノープリンセス」という白花の「ソロリア」だった。どこからきたのかわからないが、一つの群落だったものがもう三つの群落を形成していた。名前はネットで検索できたが「スミレ図鑑」で調べても掲載されていない異端の園芸種だ。

                    

 この「スノープリンセス」の白さはよく目立つ。花の中央はすぼみ気味で「しべ」が見えない。この中央も黄緑色がうっすら滲んでいる。これら三つの「ビオラ・ソロリア」の進出をどうするか迷うところだ。他の植物を駆逐してしまうのなら駆除という代執行もやぶさかではないが、そこまではいっていないので悩ましい。スミレの花咲くころはやはり悩ましい。

       

 

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近代日本の経済の礎を作った渋沢栄一

2021-04-15 20:55:39 | 読書

 「渋沢栄一」の生涯を描いた、津本陽『小説 渋沢栄一 上・下』(幻冬舎、2007.2)を読み終える。「小説」と銘打っているものの、史料の引用が多く、史録とか実録とかのほうが実態に近いように思えた。その意味ではむしろ、史料にもとずいた経過にこだわり過ぎて著者の大胆な想像力に欠けている気もする。うがった見方をすれば、その弱点ををカバーするように「小説」をむしろ冠しているのかもしれない。

                       

 基本的な流れは大河ドラマにも展開されると思うが、尊王攘夷運動にのめり込みながら開国路線に切り替え、さらには公務に見切りをつけ民間での経済活動の基礎を邁進していく。その変わり身の早いリアルな視座は、実家での「藍」をめぐる商いにルーツがある。それらを支えていたのは論語の教えであると著者は繰り返し示唆している。

               

 日本の大企業の退廃が次々出てきているが、論語をふまえた企業倫理を重視していた栄一の再評価を著者は現代に提起する。栄一は二宮尊徳の影響もあったに違いない。明治から昭和初期にかけてこの「報徳思想」を大切にしていた実業家は少なくない。しかし今は、東芝をはじめ目先の利益ばかりを求める体たらくに走り、地球規模の課題・哲学を欠落したやましい結果しか出てこない「いま」ということになる。

               

 だから、世界の先進だった日本のITも環境政策もいまや大きく水を開けられてしまった。各国の思惑を超えた「EU」という発想は、困難は山積しているもののその指導者・政治家の哲学や倫理に深さを感じる。いま渋沢栄一を注目するとはそのグローバルな倫理とフットワークを学ぶことに他ならない。大河ドラマはそれを描きだせるかどうかも注視したいものだ。

 

 

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八重ざくらとフジが満開となった

2021-04-14 22:02:46 | 風景

 畑の隣にある八重桜「松月」が満開となった。有名な「関山」は華麗・壮絶な桃色だが、「松月」はほんのりしたピンクの控えめさがいい。ヒヨドリが蜜を吸いに来る。他の鳥が来ると鋭い声を荒げて追い払ってしまう。

    

 近所のしだれザクラも殺風景だった川沿いに潤いを与えてくれている。その色もだんだん白っぽくなってきて花も散り始めている。このさりげない風景を愛でる人はどれくらいいるだろうか。それだけの人間が住んでもいない。ただ、幕末にやってきた外国人がジャパンの都会・地方の隅ずみまで花があることで、田園国家・園芸国家と称賛したような名残がここにある。

 

    

 わが家の庭のフジ「カピタン」もいよいよ開花してきた。つい先週はヤブツバキが満開だった後に選手交代を約束しているようだ。この自然な間合いが素晴らしい。ツバキとフジとの優しい競合は人間には調和にしか見えない。

 福島原発の処理水を海洋に流すのが決まった。福島から東京にも電気を供給してきたわけだから、本当は東京湾に処理水を流すべきではないだろうか。福島は東京の後始末を未だ担っているわけだ。故郷にいまだ帰れない人が少なくないという現実はすっかり風化してしまっている。

 また、コロナ疲れを隠れ蓑にお笑いグルメやバラエティで憂さを晴らすマスメディアの無責任が甚だしい。 

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何かが動いた!?

2021-04-13 20:29:35 | 生き物

 狭い旧道の坂道を下っていたら、左の法面で何かが動いた気がした。そのときの画像がこんな感じだ。この中に生き物がいたのだ。しばらく見ていたがわからなかった。これがわかった人は素晴らしい。そして突然、シジミチョウくらいの何かが飛んでいった。

      

 蝶ではないことがわかったがその斬新なデザインがモダンだった。図鑑で蛾を見ていたら意外に早く出ていた。「タイワンキシタアツバ」(台湾黄下厚翅、ヤガ科)だった。なぜ台湾の名前がついたのかは解明できなかったが、朝鮮・中国・インド・台湾にも分布する蛾ということだっだ。名前は台湾がつくが外来種ではなく、日本に普通に見られる蛾だという。翅を広げると「黄下」のとおり黄色が目立つ。

 

                    

 青い衣が突然黄色に変身するようなものだ。デルタ型体形の先端に顔があるが、まるで超音速の無尾翼デルタ機だ。似たような仲間がいっぱいあるが、表面の翅の黒い正三角形に特徴がある。蛾の仲間には蝶よりもとんでもないデザインが少なくない。それをなにげなくいつもの風景の中で見つけられるのが山里の醍醐味だ。

 

    

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山菜が旨い季節がやってきた

2021-04-12 22:39:17 | 食彩・山菜・きのこ

 裏の畑に植えておいた「こごみ」がずいぶんと増えてきた。半日陰の環境がぴったりだったようで、ほったらかし状態にもかかわらず、毎年群落が広がってきている。収穫の時期を逃すと手遅れになるので4月中だけは毎日のように観察が必要だ。正式名は、「クサソテツ」で、名前の通り大きく成長すると蘇鉄のような風貌となる。

   

 山菜体験がまだ浅いころは、似た形のシダ植物を毎回のように収穫してしまった。そのうちに、茎の色の違いがわかってきたり、裏の葉に胞子嚢がないのがわかったり、経験を重ねるのは大切なことだ。全部収穫すると枯れてしまうので1~2本残しているが、それで枯れていくことはなかった。

 場所が日陰なので雨上がりのときは「ヤマビル」が待ち構えているので注意が必要となる。近隣では栽培している人はいないので、お裾分けすると喜んでくれる。それにしても季節の絶品であるのは間違いないほどうまい。

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オルテガの危機意識がいまも新しい

2021-04-11 21:28:04 | 読書

 スペインの哲学者・オルテガに影響を受けた西部邁(ニシベススム)氏の『大衆への反逆』(文藝春秋、1983.7)をやっと読み終える。オルテガが『大衆の反逆』を刊行したのは世界大戦の狭間の1929年だった。そこで、主体性を持たず、ときの権力に依存し、みんなと同質であることに満足する「大衆」が近代に誕生し多数派になったことを提起する。オルテガの先見の明は戦後の日本はもちろん、トランプ前大統領の登場の意味を彷彿とさせるものがある。

                  

 西部氏は、「敗戦後の日本はかれの不気味なシナリオの実験劇場であった」とする。その一例として、田中角栄をあげる。「田中角栄という人物の真の凄さあるいは真の怖さは、…大衆の隠された性格を見透かすことによって、つまり自由と民主の亀裂そして友と敵との相克を知ることによって、大衆の支配者にもなったのである」と斬り込んでいく。

   

 本書は、エッセイの寄せ集めではあるけれど、あまり知られていないオルテガの提起をベースに西部氏は「大衆への反逆」を開始したのだ。そのなかでも、専門家への批判は厳しい。「<優れた審判を自力で発見できない>という意味で大衆人であるのは恥ずかしいことではなく致し方のないことである。…恥ずかしいのは、優れた審判を聞こうとも認めようともしないという意味で<反逆せる大衆>になることであろう」

 続けて、「経済学者が経済学者であるのは仕方ないことである。しかしそれを専門主義にまで落として、他分野の優れた成果を一顧だにしなくなるのならば、経済学において大衆の反逆が起こったということである」と。

          

 そういえば、ここ数年、「専門家会議」とか「有識者会議」・「審議会」とかが招集されて、その結果出された報告が政府・総理からよくマスコミに流される。あたかも政治家が独断で決定しているのではなく専門家の意見を取り入れてます。という口当たりのいい報告が実に多いが、カムフラージュにしか思えないことがたびたびある。その意味で、西部氏の専門家・知識人への批判には同感することが多い。

   

 難解な言葉や横文字を駆使する西部氏のエッセイの最後に、ヨーロッパや東欧での貧乏旅行での体験を「あとがきにかえて」いる。ここだけはわかりやすかった。と同時に、エッセイや論文に込められた「大衆社会論」なるものの基盤がここにあった。それぞれの国の空気や民衆の振る舞いから嗅ぎ取った感性のリアルさが鮮やかだった。西部氏の豊かな感性は、経済・政治・社会の中でさえ吸収してやまない。だからこそ、その筆鋒や舌鋒の切れ味の見事さは、同時に自ら孤立を産んでしまう。それは「大衆からの反撃」なのだろうか。

 また、この著書の発行人は先日亡くなられ文藝春秋にいた「半藤一利」さんだった。半藤さんの歴史やイデオロギーへの「距離感」と西部氏の「立ち位置」が紙背ににじみ出ていて納得の内容だった。

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