スペインの哲学者・オルテガに影響を受けた西部邁(ニシベススム)氏の『大衆への反逆』(文藝春秋、1983.7)をやっと読み終える。オルテガが『大衆の反逆』を刊行したのは世界大戦の狭間の1929年だった。そこで、主体性を持たず、ときの権力に依存し、みんなと同質であることに満足する「大衆」が近代に誕生し多数派になったことを提起する。オルテガの先見の明は戦後の日本はもちろん、トランプ前大統領の登場の意味を彷彿とさせるものがある。

西部氏は、「敗戦後の日本はかれの不気味なシナリオの実験劇場であった」とする。その一例として、田中角栄をあげる。「田中角栄という人物の真の凄さあるいは真の怖さは、…大衆の隠された性格を見透かすことによって、つまり自由と民主の亀裂そして友と敵との相克を知ることによって、大衆の支配者にもなったのである」と斬り込んでいく。

本書は、エッセイの寄せ集めではあるけれど、あまり知られていないオルテガの提起をベースに西部氏は「大衆への反逆」を開始したのだ。そのなかでも、専門家への批判は厳しい。「<優れた審判を自力で発見できない>という意味で大衆人であるのは恥ずかしいことではなく致し方のないことである。…恥ずかしいのは、優れた審判を聞こうとも認めようともしないという意味で<反逆せる大衆>になることであろう」
続けて、「経済学者が経済学者であるのは仕方ないことである。しかしそれを専門主義にまで落として、他分野の優れた成果を一顧だにしなくなるのならば、経済学において大衆の反逆が起こったということである」と。

そういえば、ここ数年、「専門家会議」とか「有識者会議」・「審議会」とかが招集されて、その結果出された報告が政府・総理からよくマスコミに流される。あたかも政治家が独断で決定しているのではなく専門家の意見を取り入れてます。という口当たりのいい報告が実に多いが、カムフラージュにしか思えないことがたびたびある。その意味で、西部氏の専門家・知識人への批判には同感することが多い。

難解な言葉や横文字を駆使する西部氏のエッセイの最後に、ヨーロッパや東欧での貧乏旅行での体験を「あとがきにかえて」いる。ここだけはわかりやすかった。と同時に、エッセイや論文に込められた「大衆社会論」なるものの基盤がここにあった。それぞれの国の空気や民衆の振る舞いから嗅ぎ取った感性のリアルさが鮮やかだった。西部氏の豊かな感性は、経済・政治・社会の中でさえ吸収してやまない。だからこそ、その筆鋒や舌鋒の切れ味の見事さは、同時に自ら孤立を産んでしまう。それは「大衆からの反撃」なのだろうか。
また、この著書の発行人は先日亡くなられ文藝春秋にいた「半藤一利」さんだった。半藤さんの歴史やイデオロギーへの「距離感」と西部氏の「立ち位置」が紙背ににじみ出ていて納得の内容だった。