田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

闇夜の光(2011/11/25)

2011-11-25 22:35:13 | 戦前・戦中の日々
南三陸町観光協会の楽天出店のメルマガが届きました。
日本赤十字社の支援で志津川公立病院の仮設建物の建設が始まったそうです。
CTR、MRI等の検査装置もはいるそうです。赤十字社を通しての寄付はこうして有効活用されているそうです。
(写真掲載は著作権の関係で問題ですが、読むのは少数の釣りバカですので、ゴメンなさい)
冒頭の写真。
漁船も北海道から6トンの中古船がはいり、知り合いがサプライズで大漁旗を用意してくれたとか。船体も大きくなり、取れた魚を大量に運ぶことが出来るようになったそうです。
下の写真。

メルマガの申し込みは左のブックマークに。
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 昨日飲み会があり、帰りの電車で夕刊を読んでいると、震災にさいして、数えきれないほどの音楽家が演奏で被災地の皆さんを力づけているとの記事。南三陸町のメルマガでもEXILEの歌を被災した当日の晩、中学生が避難所で歌い、皆さん涙したといった記事があったのを思い出しました。酔った影響か、私が40年前過ごした学生寮の同志会で古い会報に、東京の空爆下で学生寮の同志会でクリスマス祝会をしたという記事が思い出されました。ふと目が覚めると、乗り過ごし、あわててのぼりの最終列車に乗り事なきをえました。今朝、同志会の会報を引っ張り出しその記事を読みなおしました。(創立70周年の記念に古い記事を転載した記念号) 下のような内容。太平洋戦争では、今回の震災の200倍の人的被害が日本だけであり、周辺国も合わせると1000倍。闇の期間も10年と長かった暗い時代。読み返すと、闇が暗い分、輝きがまぶしいのは、EXILEの歌もこの記事も共通と思った次第。
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空爆下の同志会とその綱領
                   小中公毅(同志会 大正6年卒 裁判官)

日本全土が米空軍の来襲を受けその熾烈な空爆下で同志会のクリスマス礼拝がささやな乍ら厳粛に行われたということは同志会五十年の史上特異な出来事として記憶しておいてよい事柄だと思う。当時同志会では内会員中法文医科の学生達はほとんどその全員が学徒応召で狩り出されて、会内には僅かに数名の理工科の諸君が居残り、辛うじて会館を守っておるという心細い状態であった。その頃東京の周辺は連続的に空爆を受け、それが次第に都心に及び、日本橋や神田方面では、その付近一帯が焼野原と化し、連日連夜警報が発せられ、郊外から通勤していた私などはその途中で何回か電車を止められて退避させられた程であった。同志会の内会員諸君も何時爆弾が落ちてくるか判らないという危険にさらされつつ、あの少人数で不眠不休の防空警備に当たらなければならなかったし、外会員としても出ては職場を護り、帰っては自家の防空に忙殺されていて、到底同志会を顧みる余裕はなかった始末であった。
 ところがあの戦争中、外会員の代表格として金曜会をはじめ、会の面倒を見てくれていた田端平四郎君から、恒例のクリスマス礼拝をやりたいが適当な説教者がないから、その際説教をしてもらいたいとの話しがあった。
 私はこれに対しかような場合でもあるから今年はやめにしたらどうだといって体よく断ったのであったが田端君は内会員諸君も是非礼拝だけは捧げたいと願っておるからと懇請せられたので引き受けることにした。実をいうと私は田端君から話をしてくれと頼まれた時に、些か閉口したのであった。それは礼拝の後夜間帰宅の途中でまた空襲に遭うかもしれないということを恐れたためばかりでなく、当時私はクリスト信徒としてあの戦争に心から協力することを潔しとせず、軍部の専横を憎まざるを得なかったとはいえ、既に二人の子供を戦線に送り自らも国家の官吏として間接ではあるが戦争遂行のための公務に従事しており、現実と信仰の調和に苦しんでいた最中であったからであった。しかし田端君らの熱意に動かされ、且つかような際にこそ若い諸君と共に真面目に戦争と信仰との問題を語り合うべきであるとする強い責任感ともいうべつものを覚えたので思い切って出席した次第であった。そんな訳で昭和十九年度における開戦四年目の同志会クリスマス礼拝が行われたのであるが、それは次第に空襲が激化することを考慮して例年より少し早めにすることとして十二月十五日の午後四時開始と定めたのであった。無論その日にも空襲があって江東砂町付近に爆弾が投下せられ、小松川中学はじめ付近一帯に相当な火災が起こって、文字通りの空襲下のクリスマスであった。同夜集まったものは外会員として田端君と私、内会員として杉原俊輔はじめ数名という極めて少人数に過ぎなかったのであるが空襲の危険を冒しての礼拝であり、また多数の外会員が前線に赴いて戦火に曝されておる最中でもあったためか、礼拝はいとも厳粛敬虔に行われ、語るものも、聞くものも真剣にかつ熱心に祈りかつ語り合ったことを今もなおまざまざと記憶し、まことに思い出深いものがある。この礼拝において私は当時の日記によると、「主の生誕と正義の衝突」と題して語ったことになっておるがその話の大要は
 「米英と日本は何れも正義の為の戦いであるとしておるが、神の正義は一あって二はない筈だ。何れが是か非か。又は何れも非かに帰する。神は天にあってこの二つの矛盾した正義感よりする訴えを聴かれてさぞや困っておられることであろう。われらクリスト教徒は今こそ謙虚な心を以って神の御声を聴きその聖断を待つべきである」
 というにあったと記憶する。無論その礼拝の形式、説教の内容は例年のそれに比すべきものがなかったとしても、とにもかくにもあの空前絶後ともいうべき空襲下に於いて、わが同志会がこの貴い伝統的行事である聖誕礼拝を守ることができたという事は、まことに感謝すべき事であり、わが同志会の創立当初からの精神があのように苦難の時においてさえ立派に活きていたのだということを実証しえて限りなき心強さを感じせしめられたのであったが私はあの戦争中の同志会を回顧するときになお一つの、それは同志会にとって更に重要出来事として想起せざるを得ないことがある。これは戦時下における同志会の綱領に関する問題であった。元来人間殺戮を伴うあの戦争なるものは人類相愛を信条とするクリスト教徒にとっては、それはその生を享けた国の名によって始められ而も聖戦という美名のもとに続けられたものである限り、その生活の両面に於いて甚だしい矛盾を感じその精神的苦悩は少なからざるものあつたからであるが、英米のクリスト教風を母教会とし又はその国のミッションからの援助を受けていた教会にとっては一層苦難の立場におかれており、官憲の執拗な圧迫は日を追うて激しくなり教会への強制捜索、備え付け書類の押収、教会主管者達の召喚尋問が行われ逮捕収監の憂き目を見る人も生ずるという事態とまで発展して行ったのであった。私のような取るに足らぬものであったに拘わらず特高警察の監視が転任先にまで及ぼされ「法廷に於いて伝道するとは何事ぞ」と非難せられ面罵を受くることすらあった程であったから、かかる四面楚歌の中にあって教会を守っておられた教役者信徒の方々の苦労は並大抵のものではなかったはずである。この嵐の中にあってわが同志会もまた独りその圏外に立つことは許されなかった。その頃同志会の安全を保持するために一時会の旗印である綱領を緩和して風当たりを避けるべきでなかろうかということが真剣に討議されるにいたったのであった。
 私は当時を回想して同志会が創立五十年の歴史での最大の危機に遭遇したのは実にこの時であった慄然たるを得ない次第である。然しこの重大な危機も阪井会長先生の強い信仰に基づく厳然たる裁断によって免れえたのであった。
 このことは同志会にとってこの上なき喜びであると共に同志会の将来のためにその歴史の上に永く特記されて然るべきものであると信ずるものである。げに同志会はあの堂々たる綱領が厳存し且つ厳守され更にそれが各会員の一人一人に体現されてこそ同志会であり、これこそが同志会の生命である。同志会員となってクリスト教的人格を涵養することができないならば宝の山に入りながら手を空うして去るに等しい。然し私はあの空爆下における以上二つの出来事を目撃経験して同志会創立の精神は過去五十年において脈々として全会員の中にあって活動して来たことを感謝すると共に将来も益々盛んに溌剌として成長してゆくであろう事を確信し、且つそれを切に祈るものである。
(昭和28年発行の同志会会報40号より)
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