石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

9月23日の石佛巡り記

2006年09月24日 | Weblog
9月23日は…
 先週17日の石佛巡り画像をHPの方へ掲載できぬ内に一週間が過ぎてしまいました。(掲載できぬ言い訳は、仕事が重なって忙しくとても趣味としてのパソコンの前に座る時間が無かったからです。それと、内容が難しくその整理・清書が終わっていないからです)
 さて、そんな昨日23日は、お彼岸の中日だというのに、春日部市在住の中山氏と一緒に江戸前期までの庚申塔巡りを行いました。東武線新鹿沼駅8時45分に待ち合わせて、早速向かったのは鹿沼市下南摩地区の日吉神社にある延宝塔。この調査で、中山リストにある鹿沼市は全部実見したことになり、まずはオメデトウとなる。
 次いで、過去に一緒に調査しながらもなぜかリストに漏れていた粟野町中粕尾遠木地区の延宝4年塔を再度実見して、中山氏リストへ追加してもらうことになる。
 ここで、一気に足尾町へ行こうと提案すると、中山氏もぜひ見たいと言うことになり、粕尾峠越えの道を進んで足尾町へ入る。足尾町で少しうろついてから呑龍寺さんを訪ね、何時も変わらぬご住職夫妻に歓迎されての石佛調査となる。ここへ中山氏が来たかったのも、あきる野市のT氏が中山氏よりも先に見てしまったことにある。銘文が読みづらいので、文字確認のための拓本を取ってここは完読。
 ここから日光市へ向かう事にして、しばし車中で雑談ついでに、やはり中山リストに抜けている清滝1丁目の延宝八年塔に話しが及び、「イヤ、入っているはずだ!」「抜けている!」の話しとなって、持参したリストを中山氏が確認して「アッ、本当だ!抜けている}となって大笑い。
昼食を兼ねて、所野の磐裂神社へ行き、ここの庚申塔も調査完了。境内でしばしのんびりしてから、大谷向公民館へ行って、ここも実現。
ここから、今市で最も古い延宝二年塔を実現すべく、大渡の大貫家へ向かう。過去に私が最初に見たときは、全部が苔に覆われていて解読に難儀した石面、今は綺麗になっていて簡単に銘文が読めてしまったのに驚く。恐らく、今市市の歴史民俗館の方々が来て掃除したのだろうと想像する。
大貫家のご主人(これがまた絵に描いたような好感の持てる方)に、「恐らく東京からT氏なる人物が庚申塔を見たさに訪ねてくると思いますので、その時はよしなに」と、挨拶してから離れる。これを聞いていた中山氏は、他人の事まで気配りして来たと大笑いしている。あきる野市のT様、近い内に明細案内図をお送りしますから、ぜひ訪ねて下さい。
 ここから少しドライブして今市市でも西部地区へ移動する。向かうは、今市市の千本木地区である。人家も、車の往来もまばらな旧道の片隅にただ一基のみ建つ庚申塔。ここ五~6年来ていないので、道も所在地も半分ほど忘れている。結局は同じ道を三度往復して、やっと道路沿い草むらに隠れているのに出会えた。ここで中山氏の一言「ここは、地図を書いてもらっても絶対に判らない!見つけた方がどうかしている!」と。※ちなみに、上記二基(大渡の延宝2年塔と千本木の延宝8年塔)は「今市の庚申塔」に掲載されていないものです。
 次いで、ここまで来たのだからと長畑の木の峰観音堂の庚申塔を実見。この時点で残るは日光市山久保地区の庚申塔1基のみとなる。途中で道を間違えながらそれでも何とか到着。しかしそこは崖を登った山の中。中山氏も実見のために努力したがついに降参となり、中山氏のカメラを抱えて写真と銘文&サイズを代行してとってくる。
時計は4時を少し回ってしまったが、今日の予定は全て回ってしまったことになる。また、中山リストにある実見印のなかった今市市の庚申塔も全て完了となる。
メデタシメデタシと、後は出発点である新鹿沼駅まで今日の強行軍の石佛巡りの余韻を楽しむ間もなく戻って、ここでそれぞれ帰路につく。中山さん、さぞかしお疲れになっただろうと思いつつも、その飽くなき実見情熱にはただただ頭が下がる思いである。そして次回は、中山リストにあって実見印のない足利方面への再訪を約束する。

そんな次第で、今回こそHPにご紹介する画像はありません。案内兼運転手役に没頭したからです。

そして今日は、この後仕事に入ります。
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