11月12日の日曜日は、昨日のリベンジでまたしても延宝庚申塔探しに行きました。しかし、目星をつけた古墳や墓地に該当庚申塔を見つけだすことが出来ず、気が付いてみれば栃木市の大塚上区薬師堂にいました。ここにある、二猿塔の紀年銘がどうしても判読できずにいたのです。その庚申塔、どう判断しても延宝年間を下ることはない像容だけに、気になるとどうしようもなくなります。今回は、野田市の戸向氏よりも先に読んでやろうと大胆な試みで、面壁ならぬ石面と向かい合うこと約1時間。水洗いを繰り返し、霧吹きで吹きかけて現れる一瞬の陰影から文字を読みとる行程を何度も何度も繰り返しては、何とか「寛文」の文字は判読できたが、次の干支がどうしても読み切れない。そこで月日の文字がある場所を推定して同じ事を繰り返し、こちらの方は「三月八日」と読むことが出来た。暦早見表によれば、寛文時代の3月8日の庚申当たり日は11年とある。もう一度元に戻って、「寛文」の次に「十一」が出てこないか、また干支に「辛亥」と現れないかと目を皿のようにして眺めるもどうにも読めない。それでも、何とか「寛文」塔であることが読めたことだけでも今日の所は良しとして、この場を離れる。
そして気が付けば、いつの間にか栃木県藤岡町の歓喜院跡に立っていた。ここに立つのは今回で5回目。気持ちを新たにして、もう一度全ての碑塔を眺めて肝心な個所はカメラで撮影する。特に、未だ未解読の不動明王像正面に刻まれている梵字真言は、手書きする。当然、その全てを拡大写真に納めたことは言うまでもない。側面、これは拓本を取らなければ解読出来ないが、今日は警報まで出ている強風の中では無理と判断して、取りあえずは片面のみ拡大写真だけで諦める。
今日は、この時点で撮影コマ数が70枚になっている。memory-sticを交換して、次は町内の庚申塔調査に切り替える。というのも、もう少しで藤岡町の像容庚申塔調査が終わりそうなので、その完成により一歩近づくためである。あちこちと、藤岡町内を巡り歩いて調べるが、いつのまにか午後の陽となった太陽で逆光位置が多くて撮影に難儀する。また、特に部屋地区の帯刀研修館にある大正五年の線刻青面金剛像は、拓本をぜひとも欲しくなった庚申塔だが、今日ばかりは風が強すぎて流石の私も手が出ない。この庚申塔など、あきる野市のT氏が知ったら必ず見に行くと思われる塔である。そこで、私流に撮影したその塔をHPの方へその内掲載しておこう。※忙しく、少し掲載は遅れます。
そうこうしている内に、早くも時刻は午後3時。まだ19基しか調査票に書き込んでいないが、強風の中で石仏巡りをしただけでも良しとして帰宅する。
そして気が付けば、いつの間にか栃木県藤岡町の歓喜院跡に立っていた。ここに立つのは今回で5回目。気持ちを新たにして、もう一度全ての碑塔を眺めて肝心な個所はカメラで撮影する。特に、未だ未解読の不動明王像正面に刻まれている梵字真言は、手書きする。当然、その全てを拡大写真に納めたことは言うまでもない。側面、これは拓本を取らなければ解読出来ないが、今日は警報まで出ている強風の中では無理と判断して、取りあえずは片面のみ拡大写真だけで諦める。
今日は、この時点で撮影コマ数が70枚になっている。memory-sticを交換して、次は町内の庚申塔調査に切り替える。というのも、もう少しで藤岡町の像容庚申塔調査が終わりそうなので、その完成により一歩近づくためである。あちこちと、藤岡町内を巡り歩いて調べるが、いつのまにか午後の陽となった太陽で逆光位置が多くて撮影に難儀する。また、特に部屋地区の帯刀研修館にある大正五年の線刻青面金剛像は、拓本をぜひとも欲しくなった庚申塔だが、今日ばかりは風が強すぎて流石の私も手が出ない。この庚申塔など、あきる野市のT氏が知ったら必ず見に行くと思われる塔である。そこで、私流に撮影したその塔をHPの方へその内掲載しておこう。※忙しく、少し掲載は遅れます。
そうこうしている内に、早くも時刻は午後3時。まだ19基しか調査票に書き込んでいないが、強風の中で石仏巡りをしただけでも良しとして帰宅する。