昨日2008年9月20日も、栃木県大平町へ石仏巡りに出かけました。
最初に、大平町横堀地区のまだ見ていない碑塔を巡りました。地区内をグルグル巡って、なんとかこれで横堀地区を終了することが出来ました。続いて、牛久地区の牛来寺へ行き、境内にある十九夜塔や家畜塔を調査しました。この牛来寺は、前々から訪ねたかった寺院(慈覚大師円仁さんとの縁があるところ故にです)だけに、碑塔を調査する以上にのんびりし過ぎて、お昼はこの境内で取りました。碑塔としては、境内にある山澤常正が刻字した明治三十一年銘の「軍馬碑」が良かったです。これまでにも、山澤氏の文字塔は沢山見てきましたが、彼の彫刻ではこの碑が最も優れた作品と感じました。手拓も欲しかったのですが、何しろ昨日の台風一過で日射しは真夏のような強さで、それまでの碑塔調査で汗びっしょり。すっかり疲れてしまっていて、その元気がありませんでした。(これでは、本来の私らしさがないのですが、これも年のせいかと自嘲です)
さて、その後はこれまで一度も調査していない蔵井地区へ入り、公民館を見つけて立ち寄りましたが、そこには碑塔は何もなく、あるのは高い鉄塔の上に半鐘がぶら下がっているだけでした(この半鐘は、念のために佐野市の高橋氏に連絡しました)。しかし、その裏手にある共同墓地で碑塔と共に宝篋印陀羅尼経の刻まれた宝塔型宝篋印塔を見つけてニンマリ、です。ここで、時間を大幅に使用してしまう。
次は、道路沿いに「諏訪神社入口」と言う看板を見ながら、これまで何度通り過ぎたかしれないその諏訪神社へ立ち寄る。境内には、岩舟石製の灯篭等があるだけで碑塔は見当たらない。念のため、裏の林の中へ入るとそこに庚申塚があり、五基の庚申塔が建っている。特に、その中の三猿だけが刻まれた庚申塔はどう見ても延宝年間の庚申塔。しかし、文字類は摩耗していて何処にも見えないがそれからが私本来の出番となり、丁寧に見ていくと左端に文字らしき物を発見。それからは石がすり切れてしまうかと思うほど磨きに磨いて、何とか「延宝六戊午」の年号を読みとることが出来た。思わぬ所での、今年初めての延宝庚申塔確認である。その調査が終わったのは丁度3時。まだ終了するには早い時間だが、今日の成果はこれ一基でもって充分すぎるほどの成果に大満足し、ここで本日の大平町碑塔巡りは終了することにした。勿論、帰宅するや春日部市の中山氏に電話報告したのは言うまでもなく、来月には早速ご案内の約束をする。何しろ、栃木県の江戸前期庚申塔は二人してもう出てこないだろうと最終的に纏めてしまっただけに、嬉しい誤算と共にこれでまた訂正版を作らなければならなくなった。
帰路に、行こうと思いながら何ヶ月も放置していた栃木市の円通寺さんへ行く。お彼岸中と言うことで、住職さんは大忙しだが、その合間を縫って高慶大師の碑文清書を始めとして資料を渡したり、横堀地区薬師堂の地蔵立像金仏の話をする。なお、過日に東京から嘉津山氏が拓本を取りに来た旨の報告を頂く。それだけに、大師碑文の清書は喜んで頂けた。
恐らく、次回もまた大平町へ入ることになるだろう。
最初に、大平町横堀地区のまだ見ていない碑塔を巡りました。地区内をグルグル巡って、なんとかこれで横堀地区を終了することが出来ました。続いて、牛久地区の牛来寺へ行き、境内にある十九夜塔や家畜塔を調査しました。この牛来寺は、前々から訪ねたかった寺院(慈覚大師円仁さんとの縁があるところ故にです)だけに、碑塔を調査する以上にのんびりし過ぎて、お昼はこの境内で取りました。碑塔としては、境内にある山澤常正が刻字した明治三十一年銘の「軍馬碑」が良かったです。これまでにも、山澤氏の文字塔は沢山見てきましたが、彼の彫刻ではこの碑が最も優れた作品と感じました。手拓も欲しかったのですが、何しろ昨日の台風一過で日射しは真夏のような強さで、それまでの碑塔調査で汗びっしょり。すっかり疲れてしまっていて、その元気がありませんでした。(これでは、本来の私らしさがないのですが、これも年のせいかと自嘲です)
さて、その後はこれまで一度も調査していない蔵井地区へ入り、公民館を見つけて立ち寄りましたが、そこには碑塔は何もなく、あるのは高い鉄塔の上に半鐘がぶら下がっているだけでした(この半鐘は、念のために佐野市の高橋氏に連絡しました)。しかし、その裏手にある共同墓地で碑塔と共に宝篋印陀羅尼経の刻まれた宝塔型宝篋印塔を見つけてニンマリ、です。ここで、時間を大幅に使用してしまう。
次は、道路沿いに「諏訪神社入口」と言う看板を見ながら、これまで何度通り過ぎたかしれないその諏訪神社へ立ち寄る。境内には、岩舟石製の灯篭等があるだけで碑塔は見当たらない。念のため、裏の林の中へ入るとそこに庚申塚があり、五基の庚申塔が建っている。特に、その中の三猿だけが刻まれた庚申塔はどう見ても延宝年間の庚申塔。しかし、文字類は摩耗していて何処にも見えないがそれからが私本来の出番となり、丁寧に見ていくと左端に文字らしき物を発見。それからは石がすり切れてしまうかと思うほど磨きに磨いて、何とか「延宝六戊午」の年号を読みとることが出来た。思わぬ所での、今年初めての延宝庚申塔確認である。その調査が終わったのは丁度3時。まだ終了するには早い時間だが、今日の成果はこれ一基でもって充分すぎるほどの成果に大満足し、ここで本日の大平町碑塔巡りは終了することにした。勿論、帰宅するや春日部市の中山氏に電話報告したのは言うまでもなく、来月には早速ご案内の約束をする。何しろ、栃木県の江戸前期庚申塔は二人してもう出てこないだろうと最終的に纏めてしまっただけに、嬉しい誤算と共にこれでまた訂正版を作らなければならなくなった。
帰路に、行こうと思いながら何ヶ月も放置していた栃木市の円通寺さんへ行く。お彼岸中と言うことで、住職さんは大忙しだが、その合間を縫って高慶大師の碑文清書を始めとして資料を渡したり、横堀地区薬師堂の地蔵立像金仏の話をする。なお、過日に東京から嘉津山氏が拓本を取りに来た旨の報告を頂く。それだけに、大師碑文の清書は喜んで頂けた。
恐らく、次回もまた大平町へ入ることになるだろう。