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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2008年11月15日も宇都宮の庚申塔探訪です

2008年11月18日 | Weblog
2088年11月15日は、宇都宮市北西部の山の中を徘徊で、一日が終わってしまいました。その、厳しい調査顛末を以下に少し長いのですが記します。
 今回も、先週に引き続いて宇都宮市の庚申塔を主とした石仏巡り。特に今回は、上小池町と下小池町の山の中にある庚申塚を探し歩きました。最初に訪れた、上小池町の山根地区庚申塚は、とんでもない山の中にありました。そのアバウトな所在地情報を入手するだけで1時間以上も内をウロウロし、ようやくそれらしき場所が分かって、さっそくその裾にある農家を訪ねたところ、それはとんでもない山の中にあることが分かりました。道のない山の中を、それも雨が降る度に崩壊するような沢筋を片道20分近く登らなければならない場所とのこと。そしてその目標物とやらは、山の中で最も倒木の激しい場所を乗り越えた場所の近くにあるという、何とも情けなく心許ない場所である。そして実際に山の中に入って登り始めたが、確かに山仕事に使用される踏み跡はすぐになくなり、涸れた沢筋を教えられた通りに左へ左へとがむしゃらに稜線めがけて登る。山登りに自信のある私だが、庚申塚ということで甘く見たので、私の足元はいつもの布靴。加えてザックでなく三脚に調査道具一式を両手に抱えての山登りだから、途中で何度も転びそうになる。そんな体で登ること20分位で大きな二俣分岐点に到着。右側は間近に見える稜線へと易しく登れそうだが、教えられたのはとにかく左側へと登ること。その左側は、見上げるような急峻な沢筋となっていて、ホントにこんな先に庚申塚があるの?、と疑いたくなるような場所である。それでも根性で登りだし、言われた場所の酷い倒木を何とか乗り越えて、早速両側の庚申塚がありそうな所を探したが、一向に見当たらない。それでも、苦労して登って来たからには簡単に諦めるわけにはいかず、山の斜面に大岩があれば近寄って確認したり、時には大きな木の株を遠くから見て庚申塔と見違えて駆け寄ったりと、無駄な時間ばかりを費やす。そして全身汗まみれ、服は泥だらけに加えて草の実だらけとなる。とうとう、見つけられぬまま降参となり、足取り重く下山する。今度は、もう少し季節が遅くなって、木の葉が全て落ちた冬に登ることとする。
 これは、下山後に聞いた話しなのだが、元々は山稜にあった庚申塚だが、余りにもから遠いので少し下へ移動してそこにお籠もり用の小屋を作ったが、今は潰れてしまったとのこと。ついでに、本当に庚申塔もあるのか尋ねたが、「あったと思うよ」という何とも頼りがいのない返事だった。しかしそれでも、栃木県で最も過酷な場所にある「庚申塚」として、是非ともその状態と現状を記録に留めておきたく、再挑戦することにしよう。
 さて、次の庚申塚も行き着くまでに難儀した。内を2周し、ようやく庚申塚の近くの方に、この薮道から山の中にはいると、そこにあると教えられてどうにか調査できた。しかし、写真は光線の具合でうまく撮れず、ここも写真撮影のために再チャレンジである。
 三番目の庚申塚、これも探し出すまでに時間がかかった。しかも、車を日光街道沿いのリンゴ直売所に置かせていただいて、歩いて探したので時間ばかりが掛かり、ようやく辿り着いたときには疲れてしまっていたが、その庚申塚を見て驚く。そこには何と、昭和庚申年の庚申塚があり、しかもその庚申塚の周囲には11個の個人で奉納した石塔が周囲を囲んでいたのである。これも後で聞いたところ、この地区の11軒の講員全員で各自がそれぞれに昭和庚申塚を築くときに、親塔とは別に一緒に奉納したものと分かった。当然ながら、この庚申塚はこれまでだれも発表したことのない場所。栃木県の昭和庚申年塔としては、正にお宝庚申塚である。しかし、惜しむらくは歩きで来たために三分の一程が土中に埋まっている塔は、スコップがないために掘り出せない。ここも、次回への再調査としてその雰囲気だけを写真に撮って離れる。それにしても、一箇所で、昭和庚申年塔が親塔を含めて12基とは…。驚き以外の何ものでもない。嬉しさで、暫く眺めるばかりであった。
 その後は、上小池町を離れて下小池町へ移動。ここでも二基の昭和庚申年塔を調査して、早くも暗くなり出した午後4時に本日の調査を終えて帰宅する。
 次回は、今回の再調査を含めて、隣の町の庚申塔調査を続行しようと思っている。勿論、昭和庚申年塔との出会いを夢見て。
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