2008年12月27日は、今年最後の石仏巡りとして、佐野市在住の高橋氏と山口氏の三人で、栃木県田沼町(現・佐野市)の御神楽地区にある鏡岩・庚申山を登ってきました。この鏡岩へは、過去に途中まで登っていたが、今回は山頂まで登るのを第一として訪ねました。というのも、この山へは地元の方でも三十年以上も前から誰も登らなくなってしまった山で(それは偏に獸が出現するからで、過去に登ったときもいつ熊さんと遭遇してもおかしくない状態だったので、私にしては珍しく途中で止めました)、案の定、登り口で車を置かせて頂いた地元の方に、「本当に気を付けていって下さい」と、不安そうな顔をされてしまいました。もっとも、今回はその為に一人ではなく複数人数で入山したのだが。
そしてその道は、本来なら地元の方の案内無しでは少なからず無理な山(地元の方でも中年以下の方は登ったことが無いので道は知らない)だが、過去にその道を苦労して探していた私がいるため、今回は途中までは何のトラブルもなく順調に進む。しかし、それから先はさあ大変。何しろ道がない!。そこで、山の中に出てくる小さな「庚申」と刻まれた川原石を探して登ることになる。そして探せば、その「庚申」と刻まれた小石の何と多いこと。それこそ、手のひらに乗るような小さな石まで、拾い上げて見てみると文字が刻まれている有様。そんな庚申石に導かれるように、急な斜面を木につかまりながら登っていく。そして約45分程の山登りで山頂直下の鏡岩に到着。確かにそこには、昔の子供達はここまで登ってこの鏡岩の斜面を滑り台替わりにして遊んだという程のツルツルの大岩が崖下に斜めにある。しかし、そこを滑ったのでは、そのまま崖下へ転がり落ちそうで、とてもではないが真似をする気はない。もっとも、その頃の子供にとっては、それが最高のスリルw味わえる遊びだったのだろうが。
さて、ここへ来るまでにはどれほどの「庚申」と記された川原石を見てきただろう。その數に驚きつつ登った鏡岩周辺には、それを上回る数の「庚申」塔(塔と言うには誤解を招きかねないような小石がほとんどだが、それでもそこに「庚申」の文字があるのだから、庚申塔には間違いないだろう)が周辺に散乱している。そしてその中央に台座(交名付き)の上に乗った「天臼(ママ)女尊・猿田彦尊」と二行書きされた上にそのにたいの尊像が陽刻されている四角柱がある。紀年銘は「嘉永五壬子二月吉日」とある。惜しむらくは、剥離が進んでいて、二尊像が判らない状態となっている。ここへ来るのが、余りにも遅きに失した次第である。そしてその周囲には四角柱の庚申塔が沢山あり、19基を記録する。その後は、散乱している小さな庚申塔を一箇所に纏めておこうと拾い集めていると、その中に「猿田彦命・天鈿女命」と刻まれた自然石を発見して大喜びしていると、今度は「「庚申猿田彦大神・天鈿女命」とある自然石も見つけて、喜びは倍加する。
帰宅してから田沼町町史を見てみると、この鏡岩の庚申塔は25基が記されているだけで、川原石に刻まれた無数の庚申塔は全て抜けていることを知って、今更ながらに現地へ入る事の重要さを認識する。と共に、日本全国では庚申塔に興味を持っている方は沢山いるが、そんな方々にこの地の庚申塔風景を見せたら何というのだろうと、可笑しくなる。それこそ、それまでの庚申群の常識を根底から覆す事になるだろうと!。
そして無事に下山後(なぜか、途中で道を間違えて一つ尾根違いを降りてしまい、登る以上に下山も苦労しました)、高椅氏が以前に見つけておいてくれた作原地区の碑塔群を訪ねる。そこには、暫くぶりに見る「千庚申塔」が、あった。そんなこんなで、昼食時間となったのは、午後も2時を過ぎてしまうと言う有様だったが、この一年を締めくくるに相応しい楽しくも私にとっては実り多い一日であった。
そしてその道は、本来なら地元の方の案内無しでは少なからず無理な山(地元の方でも中年以下の方は登ったことが無いので道は知らない)だが、過去にその道を苦労して探していた私がいるため、今回は途中までは何のトラブルもなく順調に進む。しかし、それから先はさあ大変。何しろ道がない!。そこで、山の中に出てくる小さな「庚申」と刻まれた川原石を探して登ることになる。そして探せば、その「庚申」と刻まれた小石の何と多いこと。それこそ、手のひらに乗るような小さな石まで、拾い上げて見てみると文字が刻まれている有様。そんな庚申石に導かれるように、急な斜面を木につかまりながら登っていく。そして約45分程の山登りで山頂直下の鏡岩に到着。確かにそこには、昔の子供達はここまで登ってこの鏡岩の斜面を滑り台替わりにして遊んだという程のツルツルの大岩が崖下に斜めにある。しかし、そこを滑ったのでは、そのまま崖下へ転がり落ちそうで、とてもではないが真似をする気はない。もっとも、その頃の子供にとっては、それが最高のスリルw味わえる遊びだったのだろうが。
さて、ここへ来るまでにはどれほどの「庚申」と記された川原石を見てきただろう。その數に驚きつつ登った鏡岩周辺には、それを上回る数の「庚申」塔(塔と言うには誤解を招きかねないような小石がほとんどだが、それでもそこに「庚申」の文字があるのだから、庚申塔には間違いないだろう)が周辺に散乱している。そしてその中央に台座(交名付き)の上に乗った「天臼(ママ)女尊・猿田彦尊」と二行書きされた上にそのにたいの尊像が陽刻されている四角柱がある。紀年銘は「嘉永五壬子二月吉日」とある。惜しむらくは、剥離が進んでいて、二尊像が判らない状態となっている。ここへ来るのが、余りにも遅きに失した次第である。そしてその周囲には四角柱の庚申塔が沢山あり、19基を記録する。その後は、散乱している小さな庚申塔を一箇所に纏めておこうと拾い集めていると、その中に「猿田彦命・天鈿女命」と刻まれた自然石を発見して大喜びしていると、今度は「「庚申猿田彦大神・天鈿女命」とある自然石も見つけて、喜びは倍加する。
帰宅してから田沼町町史を見てみると、この鏡岩の庚申塔は25基が記されているだけで、川原石に刻まれた無数の庚申塔は全て抜けていることを知って、今更ながらに現地へ入る事の重要さを認識する。と共に、日本全国では庚申塔に興味を持っている方は沢山いるが、そんな方々にこの地の庚申塔風景を見せたら何というのだろうと、可笑しくなる。それこそ、それまでの庚申群の常識を根底から覆す事になるだろうと!。
そして無事に下山後(なぜか、途中で道を間違えて一つ尾根違いを降りてしまい、登る以上に下山も苦労しました)、高椅氏が以前に見つけておいてくれた作原地区の碑塔群を訪ねる。そこには、暫くぶりに見る「千庚申塔」が、あった。そんなこんなで、昼食時間となったのは、午後も2時を過ぎてしまうと言う有様だったが、この一年を締めくくるに相応しい楽しくも私にとっては実り多い一日であった。