昨3月15日は、「多摩石仏の会」会長の犬飼氏と同会会員五島氏をJR宇都宮駅に10時出迎え、暫くぶりに栃木県東部地区の石仏巡りとなりました。発端は、犬飼氏が真岡市になる阿弥陀如來像容の融通念仏塔を実見したいということに始まりました。そして最初は、その真岡市へ向かう途中にある宇都宮市東刑部の五輪塔型大日如来像を見学しました。珍しい大日如来像に最初から満足され、ホッと一息です。ここで、写真撮影のために太陽光線が像容から離れるまでの時間を我慢強く待って撮影。
その後は、私もそこを訪れるのは20年以上も経っているので、果たしてその場所を思い出されるか不安だったが、案の定以前とは人家が新しく建っていたりして迷いに迷う。というのも、そこは何の目印もない里山の中にあるので、同行した二人にしても「よくぞ、こんな場所を知っている!」と、感心されること多々。そこには、承応年間の不動明王が建立されていて、野にある不動明王像でこれほど古い紀年銘を持つものは初見とのことで喜ばれる。それからも途中で道を間違えたりしたので、取りあえず犬飼氏所望の真岡市無量寺へ向かう。そして法事で人々が沢山いる中に紛れて、本日最大の目的であった融通念仏塔をゆっくり実見する。
ここを終えた時点で、早くもお昼時間。昼食を取るに相応しい場所を求めて、再び戻って何とか下籠谷地区の神明宮と観音堂へ到着。まずは食事前に、以前多田氏にも紹介した邪鬼が仰向けになっている青面金剛塔を案内してから、道路反対側の観音堂へ行ってその観音堂敷地内で昼食となる。この観音堂には、全国的にも珍しい宝篋印塔に刻まれた「十七夜念佛供養塔」があるのを教える。また、境内に列ぶ碑塔の中から「三日月塔」をも教える。その三日月塔の信仰内容を知らないと言うので、それは不動明王のことだと手短に説明すると、そこに刻まれた種子と共に納得してくれる。それにしても、その隣には自然石文字塔の「二十三夜塔」もあるので、これでは普通の人では月待信仰塔と勘違いしてしまうだろうと笑っている。
お昼時間を少しばかりのんびりしてから、午後の部の石仏巡りに入る。私の予定では、真岡市内にある「念佛一千五百卍遍供養塔」と、本来なら「萬」とすべき文字の所が「卍」となっている、珍しい塔を案内するつもりだったが、日曜日と言うこともあって真岡市市街地は混雑しているだろうと取りやめ、現地点から益子町へと向かう道筋にある如意輪観音像容に「念仏光」と、これまた「講」の文字の替わりに「光」文字を当てた元禄年間の碑を紹介することにした。しかしこの場所も、私にとっては暫くぶりだったので、行ってみると新しい道が出来ていて、どこをどう走ったらよいのか判らなくなり、農作業の人に聞いてやっと現場へ到着する。「本当ダッ、念仏講でなく「念仏光」だ」と、つまらぬことで喜んでくれる。
そして相変わらず適当に走ったので益子町内で道に迷って右往左往しながら何とか次の目的地である益子町の普門寺へ到着。境内にある沢山の碑塔は一部省略し、まずは三猿姿の刻まれた宝篋印塔、さらに「十九夜」ならぬ「十九屋」と刻まれた元禄年間の碑を案内。何しろ今回は、真岡市の融通念仏塔だけが主で、あとはついでの時間つぶしなので、文字の面白さや像容の面白さを選んであちこちと移動する。そんな訳で、今度は私が勝手に名付けた「如意輪観音様の胸に心臓が刻まれた碑」を見せることにして町中の観音寺へ行く。ところが、その観音寺の入口を忘れてしまい細い行き止まりの道へ入ってオロオロしてしまう。それでも何とか観音寺の駐車場へ車を止められて早速ご案内。でもその前に六字の種子だけが刻まれた六地蔵種子塔を紹介する。そんなこんなで目的とする如意輪観音像を案内するのを忘れそうになって慌てたが、その胸に記された模様にうなずきながらももう一つ反応がない。いつもの私の石仏巡りなら終了となる四時近くになったが、今度はどこへ行くとも話さずに大羽地区の地蔵院へ向かって車を進める。そしてその近くの路傍に立つ、安永銘の如意輪観音像を見せる。取り立てて何の変哲もない像容だが、その如意輪さんの胸に霧吹きをかけてタワシで磨けば、そこには又しても同じ心臓部位に楕円形が現れてきた。それを見て、二人とも色めき立って熱心に調査する。これでやっと私も、それは滅多に見られない像容だと理解していただけたので面目躍如といった所である。西へ傾き始めた陽の光に追われるように写真を撮り、本日最後となる地蔵院へ向かう。そこには、十九夜念佛塔としての、非常に生真面目な自然石文字塔があるので、それを案内するためであった。
ここで、本日の石仏巡りを終了して一路、宇都宮駅へと向かってから、夕闇迫る駅前でいつものように見送りなしで別れる。遠路、日帰りで八王子から来県されました犬飼様、本当にお疲れさまでした。
さて、次回は又しても小山市へ戻って、最後の石仏落ち穂拾いに精を出すことにしましょう。
その後は、私もそこを訪れるのは20年以上も経っているので、果たしてその場所を思い出されるか不安だったが、案の定以前とは人家が新しく建っていたりして迷いに迷う。というのも、そこは何の目印もない里山の中にあるので、同行した二人にしても「よくぞ、こんな場所を知っている!」と、感心されること多々。そこには、承応年間の不動明王が建立されていて、野にある不動明王像でこれほど古い紀年銘を持つものは初見とのことで喜ばれる。それからも途中で道を間違えたりしたので、取りあえず犬飼氏所望の真岡市無量寺へ向かう。そして法事で人々が沢山いる中に紛れて、本日最大の目的であった融通念仏塔をゆっくり実見する。
ここを終えた時点で、早くもお昼時間。昼食を取るに相応しい場所を求めて、再び戻って何とか下籠谷地区の神明宮と観音堂へ到着。まずは食事前に、以前多田氏にも紹介した邪鬼が仰向けになっている青面金剛塔を案内してから、道路反対側の観音堂へ行ってその観音堂敷地内で昼食となる。この観音堂には、全国的にも珍しい宝篋印塔に刻まれた「十七夜念佛供養塔」があるのを教える。また、境内に列ぶ碑塔の中から「三日月塔」をも教える。その三日月塔の信仰内容を知らないと言うので、それは不動明王のことだと手短に説明すると、そこに刻まれた種子と共に納得してくれる。それにしても、その隣には自然石文字塔の「二十三夜塔」もあるので、これでは普通の人では月待信仰塔と勘違いしてしまうだろうと笑っている。
お昼時間を少しばかりのんびりしてから、午後の部の石仏巡りに入る。私の予定では、真岡市内にある「念佛一千五百卍遍供養塔」と、本来なら「萬」とすべき文字の所が「卍」となっている、珍しい塔を案内するつもりだったが、日曜日と言うこともあって真岡市市街地は混雑しているだろうと取りやめ、現地点から益子町へと向かう道筋にある如意輪観音像容に「念仏光」と、これまた「講」の文字の替わりに「光」文字を当てた元禄年間の碑を紹介することにした。しかしこの場所も、私にとっては暫くぶりだったので、行ってみると新しい道が出来ていて、どこをどう走ったらよいのか判らなくなり、農作業の人に聞いてやっと現場へ到着する。「本当ダッ、念仏講でなく「念仏光」だ」と、つまらぬことで喜んでくれる。
そして相変わらず適当に走ったので益子町内で道に迷って右往左往しながら何とか次の目的地である益子町の普門寺へ到着。境内にある沢山の碑塔は一部省略し、まずは三猿姿の刻まれた宝篋印塔、さらに「十九夜」ならぬ「十九屋」と刻まれた元禄年間の碑を案内。何しろ今回は、真岡市の融通念仏塔だけが主で、あとはついでの時間つぶしなので、文字の面白さや像容の面白さを選んであちこちと移動する。そんな訳で、今度は私が勝手に名付けた「如意輪観音様の胸に心臓が刻まれた碑」を見せることにして町中の観音寺へ行く。ところが、その観音寺の入口を忘れてしまい細い行き止まりの道へ入ってオロオロしてしまう。それでも何とか観音寺の駐車場へ車を止められて早速ご案内。でもその前に六字の種子だけが刻まれた六地蔵種子塔を紹介する。そんなこんなで目的とする如意輪観音像を案内するのを忘れそうになって慌てたが、その胸に記された模様にうなずきながらももう一つ反応がない。いつもの私の石仏巡りなら終了となる四時近くになったが、今度はどこへ行くとも話さずに大羽地区の地蔵院へ向かって車を進める。そしてその近くの路傍に立つ、安永銘の如意輪観音像を見せる。取り立てて何の変哲もない像容だが、その如意輪さんの胸に霧吹きをかけてタワシで磨けば、そこには又しても同じ心臓部位に楕円形が現れてきた。それを見て、二人とも色めき立って熱心に調査する。これでやっと私も、それは滅多に見られない像容だと理解していただけたので面目躍如といった所である。西へ傾き始めた陽の光に追われるように写真を撮り、本日最後となる地蔵院へ向かう。そこには、十九夜念佛塔としての、非常に生真面目な自然石文字塔があるので、それを案内するためであった。
ここで、本日の石仏巡りを終了して一路、宇都宮駅へと向かってから、夕闇迫る駅前でいつものように見送りなしで別れる。遠路、日帰りで八王子から来県されました犬飼様、本当にお疲れさまでした。
さて、次回は又しても小山市へ戻って、最後の石仏落ち穂拾いに精を出すことにしましょう。