石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2009年7月5日も栃木県今市市の石仏巡りでした

2009年07月06日 | Weblog
 特別に、6月20日と27日の石仏巡り記を別HPの方へ遅ればせながら掲載しておきましたことを記しませんでしたが、興味ある方は御笑覧下さい。それにしても、この1ヶ月間は本当に忙しい思いをしました。その中、石仏巡りだけは何とか予定通り実行できたのは「流石に私らしい」と、変なところで感心しています。
さて、
2009年7月5日も今市市(現・日光市)の石仏巡りでした。
 早いもので、今日は中山正義氏が亡くなってから一ヶ月、いわゆる月命日です。何となく朝早くから石仏巡りに出かける気分ではなく畑仕事などで過ごし、それも一段落した午前10時頃になって、ようやく宇都宮寄りの今市地区にある神社巡りでもしてこようという気分になり、随分遠く離れているが、仏壇に中山氏のために線香をあげてから出かける。
 最初に向かうは、旧今市市岩崎地区の岩崎神社。しかし、その途中の宇都宮と今市との境近くにある名前ばかりの神社へ立ち寄り、過去に調べた碑塔の再調査をして時間を無駄使い。この周辺の神社は、かつて男體山碑を求めて足繁く通った場所だが、付随物までは調査していなかったので、鳥居や狛犬に灯篭などの調査を行う。
 ようやく着いた岩崎神社。特に鳥居は古そうなので、その紀年銘を探すと「寛文十三年癸丑二月吉日」と読むことが出来た。現時点での、今市市最古の鳥居となって一人で喜ぶ。狛犬は、昭和四十四年という新しさであったが、一応念のために記録だけは取る。その他にはめぼしい物はなく、簡単に諦めて次なる手岡地区の人丸神社へ向かう。その人丸神社へ入る手前には廃寺跡があって、そこには沢山の碑塔が並んでいるがそれらは既に調査済みなので、今回はパスして人丸神社へ向かう。境内には二対の狛犬がいるが、特に参道中頃にいる狛犬はいかにも江戸時代生まれの狛犬といった姿をしているが、残念なら紀年銘は見つからなかった。その人丸神社で、幾つかの興味ある碑塔を調査してから、例幣使街道へと向い、文挟の二荒山神社に到着。ここには、今市地震の復興碑があるので、最初にその全銘文を筆記する。復興に至までの経緯が事細かに記されているので、その文章を読みながらの筆記は楽しく30分以上を費やしてしまったが、それなりに楽しい調査となった。続いて、境内にある鳥居や狛犬を記録して明神地区の栖克(すみよし)神社へ向かう。ここでも、最初に迎えてくれたのは今市地震の復旧碑であった。当然ながら、私にとっては興味ある碑なので丁寧に銘文を筆記する。そして鳥居を潜るが、この鳥居もいかにも江戸期の表情をしている。しかし、両方の柱を見るも紀年銘はなく諦めかけて額束をふっと見れば、その額束に「享保二年丁酉十月日」とあり、もう少しで紀年銘を不明とするところだったと、思わずここで苦笑する。それでも、地元の方に船村徹氏宅前に大きな庚申塔があるのを教えてもらったので、この明神地区へ次回来たときはそれを実見しに行こうと思っている。
 さて、境内には狛犬が鎮座していて、それは大正十二年のもの。素早く記録と写真を撮ってから、それよりも私にとっては興味ある稲荷社前に奉納されている石燈籠の方へ向かう。紀年銘は明治十二年とある新しい物だが、その台座には狐像が陽刻されているのに興味を持ったからだ。勿論その前には、狛犬ならぬ狛狐像一対が奉納されているが、御神燈の台座に狐まで陽刻されているのは珍しく興味津々となって写真を撮る。
 さて、この時点で時刻は早くも午後3時半。まだ、昼食も取っていないが、それ以上に困ったのはデジカメの電池が切れてしまったこと。予備の乾電池、過去に使い切ってしまったものしか(馬鹿だから、使用済みの電池までご丁寧に取って置いた)手元になく、近くにコンビニといった便利なお店もない。これが、今回の石仏巡りの潮時と考え、次回以降の今市市訪問のために今まで余り走っていない道を選びながら帰路に付くこととした。今回、珍しくも再調査碑塔を含めても庚申塔は1基も記録することはなかったが、代わりに今市地震の災害碑を2基も精査出来たことに成果大とした。
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