朝起きると、いつもの湿気のある朝と違って清々しい空気が支配していた。早速昼食を終えるや出発し、前回に写真撮影や採寸を忘れた板橋地区の栖克神社へ着いたのは、何とまだ八時になっていない有様だった。ここから、前々週の続きとすべき大渡地区方面はいささか遠い。そこで、今回もこの板橋地区からの周辺地区石仏巡りとすることにした。栖克神社の作業を終えて、まずはこの板橋地区にあるという昭和五十五年庚申塔のまだ実見していない庚申塔探しから始める。その、あるという坪地区へ入り一通り自分なりに探索し、道路沿いや目に入る場所にはないことを確認してから、内の適当な農家へ行っては早速の聞き込み調査。しかし、どこのお宅へ伺っても、もちろんお爺さん等に聞いても知らないと言うので仕方なく、その内農家の入口周辺にある馬頭観音塔などの家畜塔調査に入る。と、そこへ自転車での方が通りかかったので引き留め、この坪内の碑塔所在地に加えて、お目当ての庚申塔を尋ねれば、「俺も知らないけれど、あの人に聞けば判るかも」と、一緒になって別の農家を訪問。そしてようやく、この坪の庚申塚が判明した。とはいうものの、相変わらずその場所はとんでもないところにあって、何の目標物もない田圃の畦道をズボンの裾をビッショリに、靴は泥だらけにしてしばらく歩いて行けば、そこは個人宅の屋敷林との境の場所だった。しかも、昭和五十五年庚申塔一基のみ!。あ~あ、これだから今市の庚申塔探しはハプニングがあって楽しい!
ところで、今市市の庚申塚は面白いことに、その地区によって祭祀場所の方法が異なる。ある地域では、との境に当たる奥深い森の中に元文庚申年から始まる庚申塔が60年毎に築かれるが、その場所へは毎回の庚申講が開かれるときもお詣りにいかず、行くのは60年に一度の庚申当たり年に庚申塔を建立する時だけ、という場所。そしてもう一つは、60年の庚申当たり年毎に、新しい庚申塔を建立するには新しい庚申塚を別に築く地区、というように、大きく分けて二つの祭祀方法が見られる。この毎回場所を変えるのは、同じ場所へ庚申塚は築かないというその地区の決まりで、こういった場所の庚申塔探しが一番難しい。何しろ、地元の方の言う庚申塚へ行ってもそこには新しい庚申塔しか祀られていず、その他の庚申塔はまた別の場所にあるのである。従って、古い庚申塔の所在地ほどその場所を知っている方は少なくなり、その山の持ち主さえ「どこだったけな~」という有様の庚申塚さえある。
いずれにせよ、今市市の庚申塚探しは大変である。とにかく隣りとの境に、それも山の中が多いという有様だから、庚申講に入っている方でないと、その隣の住人に聞いても判らない。また、庚申講に入っているお宅を訪ねても、ご主人が不在なら奥様やその若夫婦を初めとした家族の方さえ知らない有様なのである。ただ、その中においての救いは、どこのお宅を訪ねても親切に対応してくれることと、時によっては「そこは、案内なしでは見つからないよ」と、ご主人自らが先頭に立って案内までしてくれる優しさである。
そんな次第で、今回の碑塔巡りでも、「今市の庚申塔」報告書に掲載されていない、大正九年庚申塔と昭和五十五年庚申塔の各一基を新たに実見できた。私にとって、今市市の石仏巡りの楽しさは、この地区住民とのふれ合いと共に、庚申塔に限らず思いもかけない碑塔に出会えるからかも知れない。そんなこんなで、今回はまたしても新しい庚申塔と共に、どこにも記録のない「男體山」山岳碑を一基追加確認できた。そんな次第で、今回の石仏巡りは成果大なるものがあり、夕方5時頃迄の碑塔調査に専念したわりには40基に満たない調査数だったが、満足して一日を終えることが出来た。
それにしても、くどいようだがこの季節の碑塔探しは難しい。足元近くに庚申塔がありながら、それ以上に伸びた夏草に覆われていて全く気付かずに離れてしまい、後で聞いたらそこに間違いなく碑塔が隠れていると言う地元の話しに、仕方なくまた戻って探索すれば、ほんの一歩ほど山の中へ足を踏み入れれば草むらの中から現れた始末に、山中で一人苦笑いである。また、広い山の中をどんなに探しても見つからないので諦め、下山してまた聞き込み調査をすれば、その直ぐ側を通っていながら5基も庚申塔が建立されている庚申塚が発見できない始末。そこへは、この夏場の暑いなかを登る気力をなくし、次回への繰り越しとする有様だった。
それでも、疲れたら近くの神社を訪問して付随石造物を調査旁々一休みをしたので、元禄年間や享保年間の鳥居に面白い狛犬なども記録できた。特に、午後になって訪れた明神地区の熊野神社(これがまた、場所が一般の方には分かり難く、地図帳などには記しもなく、しかも民家の庭先から道とは言えぬ酷い山道を登った山頂にある)は、石造物としては明治時代の鳥居に灯篭しかなかったが、その山頂からの眺めと涼しさに思わず長居をしてしまった。
さて、とりとめのないことを書きすぎたので今回はこの辺で終了しましょう。次回も、今回調査した碑塔の幾つかに不備が見つかったので、同じ地区を巡ることになるだろうと思っている。
ところで、今市市の庚申塚は面白いことに、その地区によって祭祀場所の方法が異なる。ある地域では、との境に当たる奥深い森の中に元文庚申年から始まる庚申塔が60年毎に築かれるが、その場所へは毎回の庚申講が開かれるときもお詣りにいかず、行くのは60年に一度の庚申当たり年に庚申塔を建立する時だけ、という場所。そしてもう一つは、60年の庚申当たり年毎に、新しい庚申塔を建立するには新しい庚申塚を別に築く地区、というように、大きく分けて二つの祭祀方法が見られる。この毎回場所を変えるのは、同じ場所へ庚申塚は築かないというその地区の決まりで、こういった場所の庚申塔探しが一番難しい。何しろ、地元の方の言う庚申塚へ行ってもそこには新しい庚申塔しか祀られていず、その他の庚申塔はまた別の場所にあるのである。従って、古い庚申塔の所在地ほどその場所を知っている方は少なくなり、その山の持ち主さえ「どこだったけな~」という有様の庚申塚さえある。
いずれにせよ、今市市の庚申塚探しは大変である。とにかく隣りとの境に、それも山の中が多いという有様だから、庚申講に入っている方でないと、その隣の住人に聞いても判らない。また、庚申講に入っているお宅を訪ねても、ご主人が不在なら奥様やその若夫婦を初めとした家族の方さえ知らない有様なのである。ただ、その中においての救いは、どこのお宅を訪ねても親切に対応してくれることと、時によっては「そこは、案内なしでは見つからないよ」と、ご主人自らが先頭に立って案内までしてくれる優しさである。
そんな次第で、今回の碑塔巡りでも、「今市の庚申塔」報告書に掲載されていない、大正九年庚申塔と昭和五十五年庚申塔の各一基を新たに実見できた。私にとって、今市市の石仏巡りの楽しさは、この地区住民とのふれ合いと共に、庚申塔に限らず思いもかけない碑塔に出会えるからかも知れない。そんなこんなで、今回はまたしても新しい庚申塔と共に、どこにも記録のない「男體山」山岳碑を一基追加確認できた。そんな次第で、今回の石仏巡りは成果大なるものがあり、夕方5時頃迄の碑塔調査に専念したわりには40基に満たない調査数だったが、満足して一日を終えることが出来た。
それにしても、くどいようだがこの季節の碑塔探しは難しい。足元近くに庚申塔がありながら、それ以上に伸びた夏草に覆われていて全く気付かずに離れてしまい、後で聞いたらそこに間違いなく碑塔が隠れていると言う地元の話しに、仕方なくまた戻って探索すれば、ほんの一歩ほど山の中へ足を踏み入れれば草むらの中から現れた始末に、山中で一人苦笑いである。また、広い山の中をどんなに探しても見つからないので諦め、下山してまた聞き込み調査をすれば、その直ぐ側を通っていながら5基も庚申塔が建立されている庚申塚が発見できない始末。そこへは、この夏場の暑いなかを登る気力をなくし、次回への繰り越しとする有様だった。
それでも、疲れたら近くの神社を訪問して付随石造物を調査旁々一休みをしたので、元禄年間や享保年間の鳥居に面白い狛犬なども記録できた。特に、午後になって訪れた明神地区の熊野神社(これがまた、場所が一般の方には分かり難く、地図帳などには記しもなく、しかも民家の庭先から道とは言えぬ酷い山道を登った山頂にある)は、石造物としては明治時代の鳥居に灯篭しかなかったが、その山頂からの眺めと涼しさに思わず長居をしてしまった。
さて、とりとめのないことを書きすぎたので今回はこの辺で終了しましょう。次回も、今回調査した碑塔の幾つかに不備が見つかったので、同じ地区を巡ることになるだろうと思っている。