早朝から、余りにも早すぎる時間に蒲生神社へ着いてついてしまったので、社務所へご挨拶もせぬまま(尤も、前回に断わって了解を得ていたが)、先週の雷雨で途中になっていた縣六石先生碑の手拓作業に取り掛かる。全紙一枚分の大きさだが、相変わらず念のためにと半切用紙で2枚を手拓する。早朝と言う事もあって風もなく、太陽もまだ石碑までには届いていないので本当に暫くぶりに快適な、満足のいく手拓作業となって、途中で休みながらも約2時間弱で終了する。この時点で、先週に中途半端に取った半切分の手拓を再度取り直すかで悩んだが、結局は「まッ、良いか」と相変わらずの好い加減さで取らなかったが、帰宅してからその今日の分との墨入れの違いが余りにも酷くて、今更ながらに再度手拓しなかったことを大いに反省する。
さて、本日の主たる拓本取りはこれで終了。帰りがけに宮司奥様に声をかけると、宮司さんはあいにくと外出中とのこと。くれぐれも宜しくと挨拶し、次の目的地である二荒山神社へ向かう。早速に社務所へいくが、ここでも生憎と宮司さんは出張でお留守とのこと。仕方がない、今回で何度目かの境内にある碑文再確認を約2時間かけて行う。そして以って、本日の作業は終了!。帰宅するにはあまりすぎるほどの時間だが、かといって他の所の碑文手拓をするには風が強く吹いているので拓本取りはこの時点で諦める。そこで、これまで行こうと思っていながら行けずにいた、花房町にある常念寺さんへ行くことにした。この墓域に、日本で最初に印度独立運動を唱えた丹野清先生の墓があるので、一度はお参りかたがたその没年を確認したくて…。そして昭和37年2月7日に88歳で亡くなるまで50年以上に渡って印度のために活躍したことを確認する。またその戒名も、いかにも丹野先生らしく「清照院丹譽印度大居士」となっていた。
この常念寺さん境内の石仏もついでに調査してしまうと、今度こそ行くところがない。そこで仕方なく、トボトボとママチャリに乗ってとてつもなく早い時間での帰宅となり、家内に「どうしたの!?」と不思議がられてしまう。
これでもって、一応は宇都宮市内の碑(いしぶみ)調査は終了することにした。たった、80基余りに1年以上も掛かるなんて日光の江戸前期までの庚申塔調査以来である。尤も、本当はもう少し碑文再確認と拓本を集めなければとは思うが、些か疲れ気味である。そんな訳で次回は少しのんびりした石仏を眺める予定を立てようと思っている。そうそう、当ホームページに掲載した「宇都宮市の碑」は、最も新しい内容となっています。