今回も、寒さにめげず鹿沼市の石仏巡りに出かける。その最初の目的は、2箇所にある碑文(墓碑銘)の手拓にあったのだが、1基目は寒さで水張りの水が凍ってしまい、残念ながら断念。仕方なく、今度は下南摩町の神社境内にある場所へ行ったが、こちらも同様で加えて風が吹き出してくる。それでも、まあ何とかなるかと一枚目の画仙紙を取り出して水張りを始めたが、すぐに風に煽られて凧揚げの凧の足のように途中から切れて飛んでいく。特にこの碑は、草書体で刻まれているので手拓しないと話にならない。例えばその最初の題額にしても「安遠伎夜須多賀翁能碑」(あおきやすたかのひ)とある始末である。そして撰文・書家が明治の神道を推進した本居豊穎(本居宣長の曾孫)とあらば、やはり拓本が欲しくなる。飛んでいった画仙紙を回収してから、境内に止めた車の中で風の様子見。本日の手拓を諦めたのは、それから暫くしてからのことだった。
今日は、この2基の手拓を目的としてきたので行き場を失い、仕方なく次の碑のある場所へ「あそこなら南向きに立っているし、東側には風除けのお宅があると塩山町へ向かったが、所詮は手拓するには風が強すぎた。そしてそれ以上に、その碑を眺めるに、それを手拓するだけの価値があるかと篆額の何とも下手な刻字を眺めながら、書家には申し訳ないが「これはその価値な」しと手写だけで充分とする。その碑は、撰文・書家・篆額共に、南摩綱紀によるものだと言うのに、である。
その碑の北側にある大内廟堂前に並ぶ石仏を、時間があるのでのんびり調査。それが上に掲載した画像の一部である。ここにも、回国塔に刻まれた和歌があるので、次回にはそれを手拓しようと思いつつ今回は断念。何しろ、夕方になるにつれ風が強まっているのだから。そんなこんなで、今回は行き当たりばったりの石仏巡りとなり、過去に調査済みの再調査分を除けば、朝から夕方4時まで動いていたのに30基の調査用紙書き込みに終わってしまった。したがって前回から引き継ぐと30/525基となり、残るは495基である。それでも、今月は調査用紙が100枚を突破したので、次回も余裕で手拓作業を目的としているので、天候が悪ければ石仏巡りは休む事にしようと思っている。