石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2013年3月3日も鹿沼市内の石仏調査でした。

2013年03月05日 | Weblog

 今回も、絶好の手拓日和となったので、午前中は何度か行って拓本を採ろうとしていた鹿沼市野沢町の共同墓地へ行き、念願の個人顕彰碑手拓から開始です。ただ、朝一番のために風は無いとは言え、野原の中に立つ碑とあり画仙紙を取り出してみると結構風があるが、そんな事を言っていたのではいつまでたっても埒が明かないので、一気に勝負。相変わらず、用紙止めのテープを使わずに一気に水張りして直ちに墨入れ。半切で二枚半ほどだったが結構順調に作業は進み、まあまあ満足のいく拓本が採れた。とは言え、最期の最後の段階で、石工の名前まで来たときに風に煽られ、その石工の名前のところの墨入れが薄くなってしまったが、まあご愛嬌と言ったところです。もちろん、最期にその石工名だけ別に採り直しましたが‥。問題はその後の、篆額の手拓です。気温が上がるに平行して風は強くなり、画仙紙を持ち出しただけで、バタバタと風に煽られる。エイ、ままよ!と、一気に水張りしたがやはり大きな皺がよってしまったが、これも一気に墨入れして何とか見られる拓本が採れた。そんな手拓作業をしている脇の休耕田では、いつのまにかこの季節ならのセリ採りの人たちが少しでも多くと夢中になっている。いつもなら、私もそんな一人に加わるところだが、今日は午前中にもう一箇所行きたい所があるのでその場を離れる。その途中、農家の敷地内に碑が立っているのが目に入る。幸い、庭に家人がいたので見せてもらうと、それは明治始めに当初の川が氾濫したときにその川に流されて死亡した家人の災害碑であった。石工の腕が悪いが、それを撰文したのが当地の教育者として知られた青木幸躬である。その意味では、記録に残しておきたい気持ちもするが、次回に考えることにする。
さて、次に向かったのは今回で4度目の楡木町共同墓地にある上野麗一郎墓碑。拓本を2度採るも、まだ5文字が読めない。そこで今回はその5文字だけを何としても解読したいとした。相変わらず、金属ブラシで墓碑面についた石苔と水垢を掃除し、そして1文字ずつ丁寧に手拓する。その成果は抜群で、これまで三度悩んでいた文字が今度ははっきり読めた。これで今日は、二基の碑文調査を終了することが出来たので、大満足。昼食は少し遅くなってしまったが、場所を日吉町の雷電神社へ移して取る。食後の一休みをしてから、この地にある自然石の解読に取り組むが、どうあがいても私には解読不能。手拓しても用紙がもったいないと考えて、その地にある石仏を調べてから、やはり何度も来ている日吉神社へ行く。だが、日吉神社は日陰となっていて寒く、早々に立ち退き、帰路に楡木町の成就院へ立ち寄る。この成就院も過去に調査済みだが、その時に調査した碑塔の幾つかが見つからない。仕方なく、残りの碑塔を再調査してから今日の石仏巡りに飽きてそのまま帰宅する。その成就院の十九夜塔上部に見える如意輪観音像、珍しくその足が踏み下げ形になっている。建立されたのが昭和三十一年と新しいので、既に如意輪観音像の像容が石工には判断できなかったのだろうと思うが、それも時代の流れと見て、楽しく拝見した。それがここへ掲載した写真である。

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