今回は、何としても前回に見つけられなかった岩崎地区の山の中にある庚申塔を探し出すべく向かう。そして頼りとするのは、その岩崎地区に住まう郷土史家である駒場氏宅。齢、90になろうという老人を今回ばかりは何が何でも引きずり出して、昔に行ったことがあるという山案内をしてもらうためである。膝が悪く、今ではあまり歩けないと言うご老体を車に乗せて早速前回探した場所へ向かうと、その道は一本間違っているという。そして指示通りに林道(といっても、皆様が想像するような林道とは桁違いの悪い道)途中へ車を乗り捨て、ぬかるんでドロドロの道を歩いていく。駒場さんも、何しろ昔のこととて山へ入れば勘だけが頼りの状態で、ゆっくり周辺の状態を確かめながら歩いていく。と、向い反対側の山肌に木材の切り株には見えぬ小さな何かが建っている。それは、旨い具合に最近伐採されて開けた場所になっていたから見えたものの、もしそうでなければ到底見逃してしまうような代物だった。ご老体もこの頃になると疲れが出てきたと見え、私に構わず先に行ってくれと言う。私は喜び勇んで、小さな沢を駆け下り、反対側の山斜面を駆け上れば、それは正しく長年探し続けていたこの地の庚申塚だった。それにしてもその場所は、民家のあるところからはあまりにも遠く離れた山の中である。道理で、すでに庚申信仰の途絶えたそのの方々に聞いても、誰も知らないわけであった。寛政と大正の庚申年塔2基を調べ、これで岩崎地区の石造物調査は無事に終了したことになる。
その後、無事に下山してから駒場氏宅へ戻り、お茶をご馳走になりながらお昼近くまで石造物談義をして過ごしてしまう。
午後は、岩崎地区から北へ行った文挟地区の碑塔調査である。未調査の墓地数カ所の碑塔を調査終えたので、この文挟地区もほぼ終了。但し、例幣使街道沿いにある道標四角柱は、今回も近くに車を止められないので未調査のまま通り過ぎてしまう。
そしてそのまま、小代地区へ入る。この小代地区は、大きな分譲地が出来ているので、その分譲地中にある庚申塚探しは大変で、これまでに数度挑戦したが未実見のまま過ごしていたので、今回は何としてもその庚申塚を見つけだそうという目的で入る。相変わらず、団地内をウロウロしては住人に尋ねるも、知っている方が無理と言うもので、逆に「庚申塔と、何ですか?」と逆質問される始末である。それでも、団地内の森の中をあちこちと丹念に探し歩いた結果、昔の鎌倉街道沿いの森の中に建つ庚申塚を今回は探し出すことが出来た。時間を見れば、この時点で既に午後の三時半。今回は、これまで探し出せなかった二箇所の庚申塚に巡り逢えただけで充分と、その後はあちこちと適当に巡り歩きながら落ち穂拾いを繰り返しつつ帰路についた。
次回の石仏巡りは、この小代地区から再開しようと思っている。もっとも、本心半分はもうそろそろ他の地区へも浮気心で訪れたいと思っているのだが…。
※掲載した写真は、岩崎地区の大正九年庚申塔です。このような庚申塔が、山の持ち主以外には入らない山の中にあるのですから、毎度の事ながら今市の庚申塔探しはホント、大変です。町中の庚申塔巡りをしている人の10倍以上の努力が必要ですが、それがまた楽しいのですから、もうこれは病膏肓といったところです。
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