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私は昔から同窓会というものには興味がなく、
5年おきくらいに届く同窓会の出欠を問う葉書をうるさく感じていた程であった。
当然のことながら、これまで一度も出席したことがなかった。
私が60歳になった年には、
小学、中学、高校、大学と、「還暦同窓会」の知らせが一斉に届いた。
いつもは往復葉書なのだが、
高校の同窓会からの知らせは少し大きめの封書であった。
開封してみると、返信用の葉書の他に、学級ごとの名簿が同封されていた。
名簿には、クラスメイトの現住所などが記されており、
どのクラスも2~3人が亡くなっていて、少し驚いた。
私の高校時代には、すでに学生運動は下火になっていたが、
それでも活動している生徒が幾人かいて、そのリーダー格だった生徒が既に亡くなっていた。
ビラを配りながらアジっていた姿が思い出された。
柔道をしていた屈強な生徒や、
秀才の誉れ高かった生徒も亡くなっていた。
いつごろ、どのようにして亡くなったのか……
しばし感慨にふけった。
亡くなった人の数にも驚いたが、
連絡が取れない人も各クラス10名近くいて、
その中にも1~2人は亡くなっている人がいるような気がして、
〈60歳の時点で、もうすでに同年齢の1割くらいの人が亡くなっているのではないだろうか……〉
と思った。
そこで、調べてみると、
私の誕生年に生まれた日本人は、約177万人。
私が60歳になった年に、私と同年齢の人の数は、約159万人。
生まれた人の数の89.8%で、
還暦になった時点で、統計上でもすでに1割の人が亡くなっていたのだ。
〈60歳で1割の人が亡くなっているとすると、70歳、80歳、90歳の時点ではどうなんだろう……〉
と思って、さらに調べてみると、驚くべきことが判った。
女性は男性よりもかなり長生きするので、男性だけに限って言えば、
70歳で、約2割、
80歳で、約4割、
90歳で、約8割の人が亡くなっていることが判った。
言葉は悪いが、倍々ゲームなのである。
現在、日本では、「人生100年時代」という言葉がもてはやされている。
ある海外の研究で、
「2007年に日本で生まれた子供の半数が107歳より長く生きると推計される」
と発表されたことにより、一気に気運が高まり、
安倍首相を議長とする「人生100年時代構想会議」も発足し、
「人生100年時代」という言葉をタイトルに入れた本がベストセラーになるなど、
もう寿命が100歳まで延びたかのような雰囲気になっている。
でも、これって、ちょっとおかしくないですか?
そんな急激に寿命って延びます?
ありえない。
「年金受給年齢を引き上げたい」政府と、
「不安を煽って儲けたい」保険会社などの思惑が一致し、
ありえない「人生100年時代」が、
さも、すぐそこに到来しているかのような錯覚を起こさせている。
『この先をどう生きるか 暴走老人から幸福老人へ』(藤原智美)という本を読んでいたら、
平均寿命とは、毎年発表される、その年に生まれた赤ちゃんの余命を表していて、
2050年に生まれた赤ちゃんの平均寿命が100年……と予想されており、
その結果が判明するのは130年も先のことなのである。
今、生きている我々が100歳まで生きる確率は、ほんの数パーセントにすぎないのである。
「人生100年時代」を心配する前に、
己の認知症の心配でもしていた方がイイ。
なぜなら、65歳以上の5人に1人は認知症になるそうで、
80代になると、3人に1人……と、確率はグンと高まる。
今、日本では、「おひとり様」が増大し、
「おひとり様」を目当てにした、
『孤独のすすめ』とか『極上の孤独』などというタイトルの本が出版され、
ベストセラーになっている。
だが、「おひとり様」が認知症になることは想定していないようで、
認知症になれば、孤独を味わうこともできないのである。
いつものことだが、前置きが長くなった。(笑)
映画『長いお別れ』は、
認知症の影響で徐々に記憶を失っていく父と、彼と向き合う家族を描いた作品なのである。
直木賞作家・中島京子の実体験に基づく同名小説が原作で、
監督は、『湯を沸かすほどの熱い愛』で多数の映画賞を受賞した中野量太。
認知症を患う父・昇平を山﨑努、
一家の次女・芙美役を蒼井優、
長女・麻里役を竹内結子、
母・曜子役を松原智恵子が演じているという。
『湯を沸かすほどの熱い愛』はとても感動した作品であったし、(レビューはコチラから)
キャストも私の好きな俳優ばかり。
ワクワクしながら映画館へ向かったのだった。
2007年、
父・昇平(山﨑努)の70歳の誕生日には家に帰ってくるようにと、
母・曜子(松原智恵子)から執拗に電話があり、
久々に帰省した長女の麻里(竹内結子)と、
次女の芙美(蒼井優)は、
厳格な父が認知症になったことを知る。
2009年、
芙美はワゴン車でランチ販売をしていたが、売り上げは伸びなかった。
麻里は夏休みを利用し、息子の崇と一緒に実家へ戻ってくる。
昇平の認知症は進行していて、
「帰る」と言って家を出る頻度が高くなっていた。
日に日に記憶を失い、
父でも夫でもなくなっていく昇平の様子に戸惑いながらも、
そんな昇平と向き合うことで、
各々が自分自身を見つめ直していく……
『長いお別れ』というタイトルから、
レイモンド・チャンドラーの名作ミステリーを思い浮かべる人も多いかもしれない。
チャンドラーの小説はハードボイルドとしての粋なタイトルであったが、
中島京子の『長いお別れ』は、チャンドラーの『長いお別れ』とは意味が違う。
“長いお別れ”とは、ズバリ“認知症”のことなのだ。
映画でも、原作でも、ラスト近くに、高校生になった昇平の孫・崇が、
校長室に呼ばれ、生徒思いの校長から、
認知症のことを英語で「ロング・グッドバイ」ということを教えられる。
「十年前に、友達の集まりに行こうとして場所がわからなくなったのが最初だって、おばあちゃんはよく言ってます」
「十年か。長いね。ロング・グッドバイ(長いお別れ)だね」
「なに?」
「『長いお別れ』と呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから」(中島京子『長いお別れ』文藝春秋 261頁)
この物語は、60代半ばの私には、実にショッキングであった。
なぜなら、主人公の昇平の認知症が発症するのが70歳だったからだ。
実話に基づいた原作なので、実にリアルだし、切実なのだ。
そう遠くない未来の我々(いや、私)の姿だからだ。
山﨑努は、昇平の認知症の進み具合に応じて、演技を変化させていく。
これが実に素晴らしく、かなり研究して撮影に臨まれたことが窺える。
認知症を題材に描いた映画と言えば、
森繁久彌主演の映画『恍惚の人』(1973年)が思い出される。
森繁久彌の迫真の演技と、舅の介護に忙殺される嫁・昭子を演じた高峰秀子の好演もあって、
この作品で、痴呆症(後の認知症)に対する認識が広まった。
最近では、このブログでもレビューを書いた、
『ペコロスの母に会いに行く』(2013年)
『八重子のハミング』(2017年)
が印象に残っており、(タイトルをクリックするとレビューが読めます)
どちらも、介護する者の大変さ、家族の温かみが伝わってくる佳作であった。
このように、過去の作品には、「介護の苦労」が描かれているものが多いが、
本作『長いお別れ』は、これらとは少し違う。
どこが違うかと言えば、「介護の苦労」がそれほど描かれていないからだ。
昇平はゆっくり記憶を失っていき、
それに家族が寄り添い、泣き笑いする日常の様子が丁寧に描かれているのだ。
もちろん「壮絶な介護」もあったかもしれないが、そこはあえて描いていない。
昇平(山﨑努)と、妻・曜子(松原智恵子)、
昇平(山﨑努)と、二女・芙美(蒼井優)、
昇平(山﨑努)と、長女・麻里(竹内結子)
昇平(山﨑努)と、孫の崇(杉田雷麟、蒲田優惟人)
という具合に、
夫婦、親子、孫とのふれあいを描写しながら、
昇平が忘れるごとに、むしろ深まっていく家族愛を描いているのである。
クスッと笑わされる場面も多く、「長いお別れ」も悪くないと思わせる。
曜子(松原智恵子)が妻であることも忘れてしまった昇平(山﨑努)が、
「僕の両親にあなたを正式に紹介したい。一緒に行ってくれますか?」
と再びのプロポーズをするところは、
むしろ認知症になったからこその感動シーンであった。
そして、昔、実家に曜子を連れて来たときに撮った写真が映し出されるのだが、
吉永小百合と和泉雅子と合わせて「日活三人娘」と呼ばれた時代の写真を合成しているのか、
この写真の松原智恵子が実に美しい。
今の若い人は、彼女が、1967年のブロマイド売り上げで、
吉永小百合、藤純子(現・富司純子)、和泉雅子、酒井和歌子、内藤洋子らを抑えて、
女優部門のトップになるほど人気があったとは、
たぶん知らないのではないだろうか……
昔、松原智恵子ファンだった人にも、ぜひ見てもらいたいと思う。
出勤前なので、この辺で終えようと思うが、
「人生100年時代」はまだまだ先にことであると思うが、
「高齢化社会」は、もう現実となってそこにある。
誰しも、この映画の主人公や、家族の立場になる可能性は大である。
そういう意味でも見ておくべき作品と思われる。
映画館で、ぜひぜひ。