映画『悼む人』は2月14日に公開され、
私は公開直後に見たのだが、
なかなかレビューを書けずにいた。
何故か……
それを語る前に、
まずは、ストーリーを紹介しておこう。
坂築静人(高良健吾)は、
不慮の死を遂げた人々を〈悼む〉ため、日本全国を旅している。
〈悼む〉とは、
亡くなった人を、誰かれの区別なく、
「誰に愛され、誰を愛し、どんなことをして人に感謝されたか」
ということを覚えつづけること。
左膝を地面につき、
右手を頭上に挙げ、空中に漂う何かを捕えるようにして、自分の胸へ運ぶ。
左手を地面すれすれに下ろし、大地の息吹をすくうかのようにして胸へ運び、右手の上に重ねる。
故人を〈悼む〉ときの静人なりの儀式は、傍からは奇異に映った。
雑誌記者・蒔野抗太郎(椎名桔平)は、
死者を〈悼む〉ために全国を旅しているという青年・坂築静人と、
山形のとある事故現場で出会う。
蒔野には、余命幾ばくもない父親(上條恒彦)がいるが、
子供の頃からの確執によって、袂を分かったままだった。
残忍な殺人や男女の愛憎がらみのゴシップ記事を得意とし、
同僚からも“エグノ”と揶揄される蒔野は、
静人の〈悼む〉という行為も偽善ではないかと猜疑心を抱き、
化けの皮をはいでやろうと、静人の身辺を調べ始める……
刑務所から出所したばかりの奈義倖世(石田ゆり子)は、
山形の産業廃棄物処理場を埋め立てた展望公園で、静人と出会う。
夫・甲水朔也(井浦新)をその手で殺した過去を持ち、
夫の亡霊に苦しむ倖世は、
救いを求めて、静人の旅に同行する。
横浜にある静人の実家。
母・巡子(大竹しのぶ)は、
末期がんに侵され、すぐ近くに迫っている死の予感と向き合いながら、
息子・静人の旅に理解を示そうとしている。
静人の妹・美汐(貫地谷しほり)は、
妊娠しているにもかかわらず、恋人に別れを切り出されてしまう。
破談の理由には、静人の〈悼む〉行為への偏見があった。
ふたりを支えるのは、父・鷹彦(平田満)と、
従兄弟の福埜怜司(山本裕典)。
4人は、傷つき、苦悩しながらも、
旅に出たまま帰ってこない静人のことを心配していた……
「悼む人」である静人の行動は、
遺族や故人の関係者には不審がられ、
偽善だとののしられたり、
怪しい宗教ではなかいと気味悪がられたり、
警察に通報されたりもする。
多分、映画を見た人も、
主人公である静人に、なんとも表現し難い感情を抱くのではないかと思う。
【Yahoo映画】のユーザーレビューを見ていたら、
「静人の行動が理解できない」
「最後まで主人公の目的が何なのかが解らなかった」
「現実離れしていて、感情移入はできない」
「オカルト、宗教がかっている」
「倒錯した人たちの倒錯した物語」
などの意見が少なからずあり、
主人公の「悼む人」を受け入れられたか、受け入れられなかったかが、
評価の分かれ目になっていたからだ。
私はどうだったかというと……
「悼む人」を「受け入れられた」側の人間であった。
そう、映画『悼む人』を肯定的に見た人間なのである。
にもかかわらず、レビューを書くのをためらっていたのは、
それを理論的に説明できなかったからだ。
原作である天童荒太の小説は、
刊行されてすぐ読んでいた。
純文学的なアプローチの本だなと思ったことを憶えている。
それでも忘れている部分が多かったので、
映画鑑賞後にもう一度読んでみた。
映画は、原作通りではないが、
重要な部分は網羅されていたと感じた。
「ラブシーン」は不要という評も多かったが、
あのシーンは両方とも原作にあり、
そういう意味では原作に忠実な映画であった。
「悼む人」である静人が浮世離れした存在であり、
読む者、見る者の目に奇異に映ることは、
作者の天童荒太も自覚していたようで、
重松清との対談で、次のように語っている。
『悼む人』の構想を編集者に伝えるとき、よく口にしていたのが、静人は真空な人だということです。彼の周囲の人物を描くことで、中心にぼうっと円が浮かんでくるような形を目指していました。こんなことを作者が言うのはどうかと思うけど、ああいう男は、浮世離れというか、まあ現実にはいないわけです。
この自覚があったからこそ、
静人の〈悼む〉という行為も偽善ではないかと猜疑心を抱き、
「化けの皮をはいでやろう」と静人の身辺を調べ始める雑誌記者・蒔野抗太郎を配し、
また、奈義倖世にも静人に何度も質問を浴びせかけさせている。
松田哲夫との対談で、天童荒太は、次のようにも語っている。
作中で雑誌記者の蒔野が言うように、それが何になるんだ、何の意味もないじゃないか、という僕自身の現実感覚も確かにある。だから、逆にそうした現実感覚をきっちりと書き込むことによって、〈悼む人〉の存在を熱望する僕の感情が、読み手にも伝わるのではないかと。執筆を始めるまでの数年間、その可能性を探り続けました。
作者が、「彼の周囲の人物を描くことで、中心にぼうっと円が浮かんでくるような形を目指していました」と語っている通り、小説『悼む人』は、
蒔野抗太郎、奈義倖世、坂築巡子など、周囲の人物から見た静人の姿を描いている。
そして、それは、映画でも同じだった。
だから、主人公・静人が、見る者にある一定の距離感を感じさせ、
「最後まで主人公の目的が何なのかが解らなかった」
「現実離れしていて、感情移入はできない」
「オカルト、宗教がかっている」
などの感想を抱かせたのではないかと思う。
私が、小説に対しても、映画に対しても、
それほどの違和感を感じなかったのは、
作者自身が静人になりきって、
物語をつむいでいたからだと思う。
たとえば、作者・天童荒太は、
「悼む人」である静人になりきって日記をつけている。
それは、『悼む人』発刊一年後に刊行した、『静人日記』として結実している。
重松清との対談で、
「執筆の時系列で言うと、『静人日記』のほうが前だったとか?」
という重松の問いに対して、
はい。作品内の時間もそうだし、作品としての成立時期も、もともと『静人日記』は、『悼む人』を発表する前に、そのバックボーンになるようにと、毎日つけていたものでした。
つけ続けているうちに『悼む人』では届け切れなかった人間の死、生、そこから炙りだされる人間の真の愛情みたいなものが、坂築静人という触媒を通して現れているのではないかと……
と答えている。
また、実際に「悼む人」として静人と同じような旅もしてみたとか。
直木賞受賞直後のインタビューで、
「天童さんはこの小説を書くにあたって、実際に「悼む人」と同じように死者を悼む旅に出たそうですね?」
との問いに、
そうしないと、自分自身が、この表現に届かないのがわかったからです。「悼む」という言葉は理念としては通りがいいけれど、現実に死者を「悼む」ことは可能なのだろうか。見ず知らずの死者を悼もうとしたとき、周囲の反発はどんなものなのか。頭で考えた言葉だけで書くことは不可能だと思いました。小説の主人公と同じことをやることが大事だとか偉いとかではなく、そうしないと表現できないという思いが強かったですね。とくに大切な人を亡くしていない読者はまずいないので、そういう人に対して失礼でないありかたを含めて模索する必要がありました。
と答えている。
このような、作者自身の模索や努力もあり、
小説『悼む人』は直木賞を受賞するような作品に仕上がり、
多くの読者を勝ち得たのだと思われる。
映画は、小説以上に、
静人が〈悼む〉旅をしているシーンが多く挿入されているように感じた。
静人が歩いて行く町や村の風景も美しく、
私個人としてはデジャヴを感じるほどに、魅入ってしまった。
それは、私に、徒歩日本縦断の経験があったからだと思われる。
徒歩日本縦断をしている間、私が路上でよく見たのは、
生き物の「死」であった。
北海道を歩いているとき、
50cmほどもある大ミミズが、
道路いっぱいに無数死んでいたのに遭遇したことがある。
路上では、
犬や猫だけでなく、タヌキやイタチなどの死骸も多く見た。
そして、交通事故で亡くなったであろう人への献花も……
路上にはおびただしい数の「死」が落ちていた。
私自身は無宗教なので、
最初は「死」や「死の痕跡」を見ても素通りしていたが、
あまりに「死」や「死の痕跡」が多いため、
私は、私なりやり方で〈悼む〉ようになった。
父が信心深い人だったので、
父が朝晩唱えていたお題目を、
動物の「死」や、人の「死の痕跡」を目撃する度に唱えるようになったのだ。
『悼む人』の主人公・静人ほどの目的意識はなく、
自己満足に近い感情からの行いであったと思うのだが、
ある意味、徒歩日本縦断の旅をしていた当時の私は、「悼む人」であったかもしれない。
そういう共通体験があるからだろう……静人の〈悼む〉行為には違和感を抱かなかったのだ。
映画では、静人を演じた高良健吾が素晴らしかった。
某雑誌の対談で、
「これまでの10年は、この役のための準備だった」
と、非常に重要な作品と位置付けたうえで、次のように語っている。
僕はデビュー10周年最初の主演作という特別な想いがあります。しかも自分がやってみたい表現を、100%ぶつけられる役。ただいるだけ、歩いているだけに見えるかもしれませんが、実際はいろいろしていたんです。心から出た体の動き、体から出てくるセリフ。そこにどう存在するのか。そういう表現に、最初から最後まで挑戦するという、そうそうできないことを経験させてもらいました。
本作を監督した堤幸彦は、
原作に惚れ込んで映画化を切望したそうで、
「自分の原点回帰となった作品」と位置づけた上で、
この『悼む人』以前と以後で、撮り方がガラリと変わりました。それほど衝撃的な出会いがありましたね。これまでとは違うやり方のよさも知り、そういう意味で作風も変わったと思います。
と語り、「生と死」に対する概念にも変化があったことを表明している。
これまでは親父の墓前で謝ってばかり、若くして死に別れた人へも悔恨が強かった。でもこの作品を経て、依然として死は不条理だけど、もう少し亡き相手を認め自分も認めていいという優しさを学びました。静人が書き溜めるように、私自身の悼むノートができてきたというか。常にすべてを記憶はできないけれど、必要な時にノートを開けばそこにいる。死者との向き合い方でスッキリ腑に落ちるものがありました。
奈義倖世を演じた石田ゆり子も、
小説『悼む人』刊行後すぐ読了し、
感動のあまり、
作者である天童荒太に、
「映像化されることがあったら、何らかの形で参加できないでしょうか?」
と手紙を出したとか。
日本テレビ系ドラマ『永遠の仔』(2000年)に出演して以来、
天童荒太とは折に付け手紙のやりとりを続ける仲であったらしいのだが、
それでも、他の仕事も含めて、自ら手を挙げたのは初めてのことだったらしい。
私は石田ゆり子ファンを自認しているが、
清楚で透明感のある美しさに魅せられた“隠れファン”も私の周囲には多い。
本作では、
雨にずぶ濡れになったり、
殴られたり、
人を刺したり、
濃厚な絡みがあったりと、
石田ゆり子のイメージを破壊するほどの、
ハードで厳しいシーンが多いのだが、
それでいて、清楚で透明感のある美しさは、
いささかも損なわれてはおらず、
スクリーンで見る石田ゆり子という女優の、
その凛とした女優魂には感動させられた。
雑誌記者・蒔野抗太郎を演じた椎名桔平の演技も素晴らしかった。
静人の〈悼む〉という行為は偽善ではないかと猜疑心を抱き、
「化けの皮をはいでやろう」と静人につきまとう男の役であったが、
彼の疑問は、
映画鑑賞者の疑問でもあるので、
嫌な男の役でありながら、
静人に疑問を投げかける「映画鑑賞者の代弁者」の役割も担うという難しい役柄ながら、
椎名桔平は実に巧く演じていた。
静人の母・巡子を演じた大竹しのぶの熱演も忘れがたい。
末期がんに侵され、すぐ近くに迫っている死の予感と向き合いながら、
息子・静人を弁護し、擁護する母親の役であったが、
雑誌記者・蒔野抗太郎の立場とは真逆で、
常に静人を信じ、理解し、聖母のような役柄で、
特にラストシーンは神々しささえ感じさせるほどに素晴らしかった。
その他、
妊娠しているにもかかわらず、恋人に別れを切り出されてしまう、
静人の妹・美汐を演じた貫地谷しほり、
旅先で静人が悼んだ少年の母親で、
いじめにあって死んだ息子・直紀が、知的障害だったことから、
彼に問題があったというねつ造記事を書かれ、
悲しみと怒りを抱き続けている女性・沼田響子を演じた麻生祐未、
静人の父・鷹彦を演じた平田満、
倖世が大雨に打たれて発熱した時、
診療してもらった診療所の女医・比田雅恵を演じた戸田恵子の演技が光っていた。
〈悼む〉とは、
亡くなった人を、誰かれの区別なく、
「誰に愛され、誰を愛し、どんなことをして人に感謝されたか」
ということを覚えつづけること。
と先に書いた。
誰にも記憶されない人は、やはり哀しい。
だが、多くの人に記憶される必要はないようにも思う。
自分のことを愛してくれた人に、
それがたった一人であっても、
その愛してくれた人の記憶に残ったら、
それはとても幸福なことと思われる。
私の好きな作家・福永武彦の『草の花』の中に、次のような一節がある。
一人の人間は、彼が灰となり塵に帰ってしまった後に於いても、誰かが彼の動作、彼の話しぶり、彼の癖、彼の感じかた、彼の考え、そのようなものを明らかに覚えている限り、なお生きている。そして彼を識る人々が一人ずつ死んで行くにつれて、彼の生きる幽明界は次第に狭くなり、最後の一人が死ぬと共に、彼は二度目の、決定的な死を死ぬ。この死と共に、彼はもはや生者の間に甦ることはない。
私は、昨年(2014年)1月30日に書いた『小さなおうち』のレビューの最後に、
次のように記している。
この言葉をもって、本作のレビューを終えたいと思う。
ちなみに、私はというと、
「生きた証しを残したい」とは思わないし、
自分史みたいなものも書かないだろう。
むしろ逆に、
人生の終末に向けて、
自分の所有しているものを徐々に減らしながら、
自分の生きた痕跡をひとつひとつ消去し、
死んだときには、なにも残らないようにしたい。
私という人物がこの世に存在したという痕跡が残らないようにしたい。
配偶者と子供たちと孫たちの記憶に、
負担にならない程度に少しだけ残ってくれれば……と思っている。
それ以上のものは望まない。
私は公開直後に見たのだが、
なかなかレビューを書けずにいた。
何故か……
それを語る前に、
まずは、ストーリーを紹介しておこう。
坂築静人(高良健吾)は、
不慮の死を遂げた人々を〈悼む〉ため、日本全国を旅している。
〈悼む〉とは、
亡くなった人を、誰かれの区別なく、
「誰に愛され、誰を愛し、どんなことをして人に感謝されたか」
ということを覚えつづけること。
左膝を地面につき、
右手を頭上に挙げ、空中に漂う何かを捕えるようにして、自分の胸へ運ぶ。
左手を地面すれすれに下ろし、大地の息吹をすくうかのようにして胸へ運び、右手の上に重ねる。
故人を〈悼む〉ときの静人なりの儀式は、傍からは奇異に映った。
雑誌記者・蒔野抗太郎(椎名桔平)は、
死者を〈悼む〉ために全国を旅しているという青年・坂築静人と、
山形のとある事故現場で出会う。
蒔野には、余命幾ばくもない父親(上條恒彦)がいるが、
子供の頃からの確執によって、袂を分かったままだった。
残忍な殺人や男女の愛憎がらみのゴシップ記事を得意とし、
同僚からも“エグノ”と揶揄される蒔野は、
静人の〈悼む〉という行為も偽善ではないかと猜疑心を抱き、
化けの皮をはいでやろうと、静人の身辺を調べ始める……
刑務所から出所したばかりの奈義倖世(石田ゆり子)は、
山形の産業廃棄物処理場を埋め立てた展望公園で、静人と出会う。
夫・甲水朔也(井浦新)をその手で殺した過去を持ち、
夫の亡霊に苦しむ倖世は、
救いを求めて、静人の旅に同行する。
横浜にある静人の実家。
母・巡子(大竹しのぶ)は、
末期がんに侵され、すぐ近くに迫っている死の予感と向き合いながら、
息子・静人の旅に理解を示そうとしている。
静人の妹・美汐(貫地谷しほり)は、
妊娠しているにもかかわらず、恋人に別れを切り出されてしまう。
破談の理由には、静人の〈悼む〉行為への偏見があった。
ふたりを支えるのは、父・鷹彦(平田満)と、
従兄弟の福埜怜司(山本裕典)。
4人は、傷つき、苦悩しながらも、
旅に出たまま帰ってこない静人のことを心配していた……
「悼む人」である静人の行動は、
遺族や故人の関係者には不審がられ、
偽善だとののしられたり、
怪しい宗教ではなかいと気味悪がられたり、
警察に通報されたりもする。
多分、映画を見た人も、
主人公である静人に、なんとも表現し難い感情を抱くのではないかと思う。
【Yahoo映画】のユーザーレビューを見ていたら、
「静人の行動が理解できない」
「最後まで主人公の目的が何なのかが解らなかった」
「現実離れしていて、感情移入はできない」
「オカルト、宗教がかっている」
「倒錯した人たちの倒錯した物語」
などの意見が少なからずあり、
主人公の「悼む人」を受け入れられたか、受け入れられなかったかが、
評価の分かれ目になっていたからだ。
私はどうだったかというと……
「悼む人」を「受け入れられた」側の人間であった。
そう、映画『悼む人』を肯定的に見た人間なのである。
にもかかわらず、レビューを書くのをためらっていたのは、
それを理論的に説明できなかったからだ。
原作である天童荒太の小説は、
刊行されてすぐ読んでいた。
純文学的なアプローチの本だなと思ったことを憶えている。
それでも忘れている部分が多かったので、
映画鑑賞後にもう一度読んでみた。
映画は、原作通りではないが、
重要な部分は網羅されていたと感じた。
「ラブシーン」は不要という評も多かったが、
あのシーンは両方とも原作にあり、
そういう意味では原作に忠実な映画であった。
「悼む人」である静人が浮世離れした存在であり、
読む者、見る者の目に奇異に映ることは、
作者の天童荒太も自覚していたようで、
重松清との対談で、次のように語っている。
『悼む人』の構想を編集者に伝えるとき、よく口にしていたのが、静人は真空な人だということです。彼の周囲の人物を描くことで、中心にぼうっと円が浮かんでくるような形を目指していました。こんなことを作者が言うのはどうかと思うけど、ああいう男は、浮世離れというか、まあ現実にはいないわけです。
この自覚があったからこそ、
静人の〈悼む〉という行為も偽善ではないかと猜疑心を抱き、
「化けの皮をはいでやろう」と静人の身辺を調べ始める雑誌記者・蒔野抗太郎を配し、
また、奈義倖世にも静人に何度も質問を浴びせかけさせている。
松田哲夫との対談で、天童荒太は、次のようにも語っている。
作中で雑誌記者の蒔野が言うように、それが何になるんだ、何の意味もないじゃないか、という僕自身の現実感覚も確かにある。だから、逆にそうした現実感覚をきっちりと書き込むことによって、〈悼む人〉の存在を熱望する僕の感情が、読み手にも伝わるのではないかと。執筆を始めるまでの数年間、その可能性を探り続けました。
作者が、「彼の周囲の人物を描くことで、中心にぼうっと円が浮かんでくるような形を目指していました」と語っている通り、小説『悼む人』は、
蒔野抗太郎、奈義倖世、坂築巡子など、周囲の人物から見た静人の姿を描いている。
そして、それは、映画でも同じだった。
だから、主人公・静人が、見る者にある一定の距離感を感じさせ、
「最後まで主人公の目的が何なのかが解らなかった」
「現実離れしていて、感情移入はできない」
「オカルト、宗教がかっている」
などの感想を抱かせたのではないかと思う。
私が、小説に対しても、映画に対しても、
それほどの違和感を感じなかったのは、
作者自身が静人になりきって、
物語をつむいでいたからだと思う。
たとえば、作者・天童荒太は、
「悼む人」である静人になりきって日記をつけている。
それは、『悼む人』発刊一年後に刊行した、『静人日記』として結実している。
重松清との対談で、
「執筆の時系列で言うと、『静人日記』のほうが前だったとか?」
という重松の問いに対して、
はい。作品内の時間もそうだし、作品としての成立時期も、もともと『静人日記』は、『悼む人』を発表する前に、そのバックボーンになるようにと、毎日つけていたものでした。
つけ続けているうちに『悼む人』では届け切れなかった人間の死、生、そこから炙りだされる人間の真の愛情みたいなものが、坂築静人という触媒を通して現れているのではないかと……
と答えている。
また、実際に「悼む人」として静人と同じような旅もしてみたとか。
直木賞受賞直後のインタビューで、
「天童さんはこの小説を書くにあたって、実際に「悼む人」と同じように死者を悼む旅に出たそうですね?」
との問いに、
そうしないと、自分自身が、この表現に届かないのがわかったからです。「悼む」という言葉は理念としては通りがいいけれど、現実に死者を「悼む」ことは可能なのだろうか。見ず知らずの死者を悼もうとしたとき、周囲の反発はどんなものなのか。頭で考えた言葉だけで書くことは不可能だと思いました。小説の主人公と同じことをやることが大事だとか偉いとかではなく、そうしないと表現できないという思いが強かったですね。とくに大切な人を亡くしていない読者はまずいないので、そういう人に対して失礼でないありかたを含めて模索する必要がありました。
と答えている。
このような、作者自身の模索や努力もあり、
小説『悼む人』は直木賞を受賞するような作品に仕上がり、
多くの読者を勝ち得たのだと思われる。
映画は、小説以上に、
静人が〈悼む〉旅をしているシーンが多く挿入されているように感じた。
静人が歩いて行く町や村の風景も美しく、
私個人としてはデジャヴを感じるほどに、魅入ってしまった。
それは、私に、徒歩日本縦断の経験があったからだと思われる。
徒歩日本縦断をしている間、私が路上でよく見たのは、
生き物の「死」であった。
北海道を歩いているとき、
50cmほどもある大ミミズが、
道路いっぱいに無数死んでいたのに遭遇したことがある。
路上では、
犬や猫だけでなく、タヌキやイタチなどの死骸も多く見た。
そして、交通事故で亡くなったであろう人への献花も……
路上にはおびただしい数の「死」が落ちていた。
私自身は無宗教なので、
最初は「死」や「死の痕跡」を見ても素通りしていたが、
あまりに「死」や「死の痕跡」が多いため、
私は、私なりやり方で〈悼む〉ようになった。
父が信心深い人だったので、
父が朝晩唱えていたお題目を、
動物の「死」や、人の「死の痕跡」を目撃する度に唱えるようになったのだ。
『悼む人』の主人公・静人ほどの目的意識はなく、
自己満足に近い感情からの行いであったと思うのだが、
ある意味、徒歩日本縦断の旅をしていた当時の私は、「悼む人」であったかもしれない。
そういう共通体験があるからだろう……静人の〈悼む〉行為には違和感を抱かなかったのだ。
映画では、静人を演じた高良健吾が素晴らしかった。
某雑誌の対談で、
「これまでの10年は、この役のための準備だった」
と、非常に重要な作品と位置付けたうえで、次のように語っている。
僕はデビュー10周年最初の主演作という特別な想いがあります。しかも自分がやってみたい表現を、100%ぶつけられる役。ただいるだけ、歩いているだけに見えるかもしれませんが、実際はいろいろしていたんです。心から出た体の動き、体から出てくるセリフ。そこにどう存在するのか。そういう表現に、最初から最後まで挑戦するという、そうそうできないことを経験させてもらいました。
本作を監督した堤幸彦は、
原作に惚れ込んで映画化を切望したそうで、
「自分の原点回帰となった作品」と位置づけた上で、
この『悼む人』以前と以後で、撮り方がガラリと変わりました。それほど衝撃的な出会いがありましたね。これまでとは違うやり方のよさも知り、そういう意味で作風も変わったと思います。
と語り、「生と死」に対する概念にも変化があったことを表明している。
これまでは親父の墓前で謝ってばかり、若くして死に別れた人へも悔恨が強かった。でもこの作品を経て、依然として死は不条理だけど、もう少し亡き相手を認め自分も認めていいという優しさを学びました。静人が書き溜めるように、私自身の悼むノートができてきたというか。常にすべてを記憶はできないけれど、必要な時にノートを開けばそこにいる。死者との向き合い方でスッキリ腑に落ちるものがありました。
奈義倖世を演じた石田ゆり子も、
小説『悼む人』刊行後すぐ読了し、
感動のあまり、
作者である天童荒太に、
「映像化されることがあったら、何らかの形で参加できないでしょうか?」
と手紙を出したとか。
日本テレビ系ドラマ『永遠の仔』(2000年)に出演して以来、
天童荒太とは折に付け手紙のやりとりを続ける仲であったらしいのだが、
それでも、他の仕事も含めて、自ら手を挙げたのは初めてのことだったらしい。
私は石田ゆり子ファンを自認しているが、
清楚で透明感のある美しさに魅せられた“隠れファン”も私の周囲には多い。
本作では、
雨にずぶ濡れになったり、
殴られたり、
人を刺したり、
濃厚な絡みがあったりと、
石田ゆり子のイメージを破壊するほどの、
ハードで厳しいシーンが多いのだが、
それでいて、清楚で透明感のある美しさは、
いささかも損なわれてはおらず、
スクリーンで見る石田ゆり子という女優の、
その凛とした女優魂には感動させられた。
雑誌記者・蒔野抗太郎を演じた椎名桔平の演技も素晴らしかった。
静人の〈悼む〉という行為は偽善ではないかと猜疑心を抱き、
「化けの皮をはいでやろう」と静人につきまとう男の役であったが、
彼の疑問は、
映画鑑賞者の疑問でもあるので、
嫌な男の役でありながら、
静人に疑問を投げかける「映画鑑賞者の代弁者」の役割も担うという難しい役柄ながら、
椎名桔平は実に巧く演じていた。
静人の母・巡子を演じた大竹しのぶの熱演も忘れがたい。
末期がんに侵され、すぐ近くに迫っている死の予感と向き合いながら、
息子・静人を弁護し、擁護する母親の役であったが、
雑誌記者・蒔野抗太郎の立場とは真逆で、
常に静人を信じ、理解し、聖母のような役柄で、
特にラストシーンは神々しささえ感じさせるほどに素晴らしかった。
その他、
妊娠しているにもかかわらず、恋人に別れを切り出されてしまう、
静人の妹・美汐を演じた貫地谷しほり、
旅先で静人が悼んだ少年の母親で、
いじめにあって死んだ息子・直紀が、知的障害だったことから、
彼に問題があったというねつ造記事を書かれ、
悲しみと怒りを抱き続けている女性・沼田響子を演じた麻生祐未、
静人の父・鷹彦を演じた平田満、
倖世が大雨に打たれて発熱した時、
診療してもらった診療所の女医・比田雅恵を演じた戸田恵子の演技が光っていた。
〈悼む〉とは、
亡くなった人を、誰かれの区別なく、
「誰に愛され、誰を愛し、どんなことをして人に感謝されたか」
ということを覚えつづけること。
と先に書いた。
誰にも記憶されない人は、やはり哀しい。
だが、多くの人に記憶される必要はないようにも思う。
自分のことを愛してくれた人に、
それがたった一人であっても、
その愛してくれた人の記憶に残ったら、
それはとても幸福なことと思われる。
私の好きな作家・福永武彦の『草の花』の中に、次のような一節がある。
一人の人間は、彼が灰となり塵に帰ってしまった後に於いても、誰かが彼の動作、彼の話しぶり、彼の癖、彼の感じかた、彼の考え、そのようなものを明らかに覚えている限り、なお生きている。そして彼を識る人々が一人ずつ死んで行くにつれて、彼の生きる幽明界は次第に狭くなり、最後の一人が死ぬと共に、彼は二度目の、決定的な死を死ぬ。この死と共に、彼はもはや生者の間に甦ることはない。
私は、昨年(2014年)1月30日に書いた『小さなおうち』のレビューの最後に、
次のように記している。
この言葉をもって、本作のレビューを終えたいと思う。
ちなみに、私はというと、
「生きた証しを残したい」とは思わないし、
自分史みたいなものも書かないだろう。
むしろ逆に、
人生の終末に向けて、
自分の所有しているものを徐々に減らしながら、
自分の生きた痕跡をひとつひとつ消去し、
死んだときには、なにも残らないようにしたい。
私という人物がこの世に存在したという痕跡が残らないようにしたい。
配偶者と子供たちと孫たちの記憶に、
負担にならない程度に少しだけ残ってくれれば……と思っている。
それ以上のものは望まない。