一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『あんのこと』……河合優実の演技に胸を締めつけられる入江悠監督の傑作……

2024年06月10日 | 映画


本作『あんのこと』を見たいと思った理由は、ただひとつ。
私の好きな女優・河合優実の主演映画だから。


私が河合優実を好きなことは、このブログの読者ならとっくの昔にご存じのことと思うが、
まだ河合優実を知らない人がおられるかもしれないので、
参考として過去の記事を挙げておく。
河合優実に関してはたくさん記事を書いているので、
そのうちのいくつかでも読んで頂けると嬉しい。

※河合優実関連・ブログ「一日の王」掲載記事
映画『サマーフィルムにのって』……本作の欠点を葬り去るほどの伊藤万理華の魅力……
映画『由宇子の天秤』 ……代表作を次々と更新していく瀧内公美の新たな代表作……
第8回「一日の王」映画賞・日本映画(2021年公開作品)ベストテン(新人賞選出)
映画『ちょっと思い出しただけ』 ……路地裏に咲く名も知らぬ花のような恋……
映画『愛なのに』 ……河合優実、さとうほなみ、向里祐香が魅力的な傑作ラブコメ……
映画『女子高生に殺されたい』 ……河合優実の凄みを感じた城定秀夫監督の傑作……
映画『PLAN 75』 ……河合優実を見に行ったら、とんでもない傑作に出逢った……
NHK土曜ドラマ「17才の帝国」 ……河合優実、山田杏奈と、ロケ地の佐世保……
最近、驚いたこと⑭ ……山下達郎「LOVE'S ON FIRE」のMVに河合優実が……
映画『冬薔薇』 ……河合優実、和田光沙、余貴美子に逢いたくて……
最近、驚いたこと⑮ ……私の好きな女優・河合優実の映画初主演作が公開決定……
映画『百花』……菅田将暉と原田美枝子の演技が素晴らしい川村元気監督の秀作……
映画『線は、僕を描く』 ……清原果耶、河合優実、富田靖子に逢いたくて……
映画『ある男』……脚本(向井康介)と映像(近藤龍人)が秀逸な石川慶監督の傑作……
人生の一日(2023年1月13日)「批判する頭のよさより……」
第9回「一日の王」映画賞・日本映画(2022年公開作品)ベストテン(最優秀助演女優賞)
映画『少女は卒業しない』 ……河合優実の初主演作にして青春恋愛映画の傑作……
映画『ひとりぼっちじゃない』 ……河合優実の出演作だから見たのであるが……
最近、驚いたこと⑳ ……河合優実を知らなすぎるにもほどがある!……
河合優実の地上波ドラマ初主演作「RoOT / ルート」(テレ東系)が今夜スタート
(タイトルをクリックするとレビューが読めます)


2024年6月7日公開の映画なのだが、
佐賀では(いつものように遅れて)シアターシエマで7月5日からの公開となっていた。
当初は(1ヶ月遅れでも)佐賀で見ようと思っていたが、
福岡へ行く用事(ヴァイオリニスト・廣津留すみれさんが出演するコンサート)があり、
その日が『あんのこと』の公開日(6月7日)であったため、
急遽、福岡で見ることを決定する。
コンサートは19:00からだったので、
昼間に、上映館である「kino cinema 天神」で鑑賞したのだった。



売春や麻薬の常習犯である21歳の香川杏(河合優実)は、
ホステスの母親(河井青葉)と、
足の悪い祖母(広岡由里子)と3人で暮らしている。


子どもの頃から酔った母親に殴られて育った彼女は、
小学4年生から不登校となり、
12歳の時に母親の紹介で初めて体を売った。
人情味あふれる刑事・多々羅(佐藤二朗)との出会いをきっかけに、


更生の道を歩み出した杏は、
多々羅や、彼の友人であるジャーナリスト・桐野(稲垣吾郎)の助けを借りながら、


新たな仕事や住まいを探し始める。


しかし突然のコロナ禍によって3人はすれ違い、
それぞれが孤独と不安に直面していく……




監督・脚本は、『SR サイタマノラッパー』『AI崩壊』の入江悠。


本作『あんのこと』は、実際にあったある事件に基づいている。
コロナ禍に見舞われていた2020年春、
人気の途絶えた東京の路上で、一人の女性が命を絶った。
薬物から更生し、自分の人生を始めようとした矢先、
パンデミックに行く手を阻まれ、力が尽きたのだ。
このことを報じた新聞記事を読んだプロデューサーの國實瑞恵が衝撃を受け、
〈彼女の人生を残さないと……〉
と、入江悠監督に映画化を持ちかけた。
入江悠監督は語る。

本作プロデューサーの國實瑞恵さんから「映画にしてみませんか?」と、一本の新聞記事をもらったのがきっかけです。コロナ禍で命を絶ったある若い女性についての記事でした。彼女は幼い頃から母親の虐待を受け、売春を強いられ、薬物中毒に陥っていた。再起に向けて頑張っていた矢先、新型コロナウイルスが感染拡大し、自ら命を絶ってしまったといいます。私たちの社会、もっと言えば自分のすぐ隣にこういう子がいたという事実に、まず衝撃を受けました。
(中略)
2020年から21年にかけて社会を覆ったあの空気を、忘れないように記録しておきたい。そういう気持ちはありました。でも、コロナ禍と社会的弱者というようなテーマがあったわけではなく、むしろ記事に書かれていたひとりの女性について、より深く知りたいという動機が先にありました。たしかに彼女の人生は過酷といえます。でもそれは、(亡くなった)私の友人たちがそうであったように、少し条件が揃ってしまえば誰にでも起きうることなのかもしれない。と同時に、彼女にも楽しく豊かな時間はあったにちがいない。そう考えたとき、彼女の人生と並走し、その体温を身近に感じてみたくなったんです。わたしはこれまで、物語の着地点が比較的明確な娯楽作を撮ってきました。でも今作は違います。モチーフは実際の事件ですが、撮り終えたときに自分が何を感じているのか、取材を始めた時点では何もわからなかった。他者の人生を勝手に総括し、結論を与えることは失礼だと思ったのです。その意味では初めての挑戦でしたし、これまで培ったノウハウとか方法論はすべて捨てようと、最初から決めて臨みました。(パンフレットのインタビューより)


主人公の香川杏(河合優実)は、シャブ中で、ウリの常習犯。
ホステスの母と、足の不自由な祖母と、東京・赤羽の団地で暮らしている。
子供の頃から酔った母親に殴られて育つ。
小4で不登校。難しい漢字はほとんど読めない。
初めて躰を売ったのは12歳で、相手は母親の紹介だった。
初めて覚醒剤を使ったのは14歳のとき。
希望も絶望も知らずに、一家の暮らしを支えるためにただ日々を生きている。
2018年、秋に、初めて警察に捕まる。


序盤から中盤にかけては、
刑事・多々羅(佐藤二朗)と、ジャーナリスト・桐野(稲垣吾郎)の助けを借りながら、
更生の道を歩み出す杏の姿が描かれる。


「過酷な人生であっても、周囲の人々の助けを借りながら更生する一人の女性の物語……」
と思いきや、
2020年、新型コロナウイルスはあっという間に世界中に広まり、
杏の世界を無情にも削り取っていく。
杏にとって更に過酷な運命が待ち構えていたのだ。
自分が信じた人々にも次々に裏切られ、
杏は次第に追い詰められていく。
そして、ついに……
東京オリンピックの開催を告げるブルーインパルスの白い飛行機雲と轟音。
この美しくも哀しいラストシーンに、
胸が締めつけられる思いをしたのは、私だけではないだろう。


とにかく杏を演じた河合優実の演技が素晴らしい。


このような役柄ならば、ともすればオーバーアクションになりやすいものであるが、
河合優実は、抑えに抑えた演技で魅せる。


自分が杏という女性を演じたことに、どういう意味があったのか。そんなメッセージとともに観る人に届くのか。正直に言うと、まだ私にはわかりません。撮影中からずっと考え続けてきたけれど、答えは見つからなかった。だた、一つ言えるのは、この映画の作り手がみんな、杏の尊厳を全力で守ろうとしたこと。完成版を見たとき、その思いがスクリーンから滲んでいるのを感じて、その点においては心底ほっとしました。私たちにできるのは、数年前に起きていた事件をちゃんと知ること。そしてコロナが収まりつつある今も、それを忘れずにいることだと思います。この映画が広く見られ、彼女が感じた痛みを多くの人がわかちあうようになってくれれば、それは一つ、意味のあることなのかなと。今はそんなふうに思っています。(パンフレットのインタビューより)

河合優実はこう語っていたが、なんと謙虚な言葉だろう。


本作を鑑賞した人は、あまりに救いのない物語に愕然とするかもしれない。
人間不信に陥るかもしれない。
実際、私もそうなりかけた。
だが、河合優実の
「私たちにできるのは、事件を知ること、忘れないこと」
という言葉に、救われた思いがした。
絶望を描いているからこそ、
人生の美しさや、生きるということの尊さが見えたのかもしれない。


それを知ることができたのかもしれない……


そういう意味で、
鑑賞直後よりも、時間が経ってからより大きな感動がやってきた作品であった。
最近では稀な経験であった。



河合優実のことばかり語ってしまったが、
刑事・多々羅保を演じた佐藤二朗、


週刊誌記者・桐野達樹を演じた稲垣吾郎、


杏の母親・香川春海を演じた河井青葉の演技が素晴らしかったことも、
記しておかねばならないだろう。


聖人でもない限り、清廉潔白な人なんていない。
人は誰でもグレーな部分を内包しているものだ。
そんなどうしようもない性(サガ)を抱えた大人を演じた三人の演技は、
杏の演技を引き立てていたし、本作を傑作へと押し上げていた。



撮影の浦田秀穂、録音の藤丸和徳、美術の塩川節子など、
第75回カンヌ国際映画祭で「カメラ・ドール特別表彰」を受賞した『PLAN 75』(2022年)のスタッフたちが集結し、美しく優れた映像を創り出していたのも嬉しかった。



河合優実は、褒めても、褒めても、褒め過ぎることはないほどの演技だったし、
この作品で(様々な映画賞で)主演女優賞を受賞することと思われる。
河合優実のファンのみならず、
映画ファンは見ておかなければならない作品と言えるだろう。


今年(2024年)は、2024年のカンヌ国際映画祭・監督週間に出品された、
主演作『ナミビアの砂漠』(9月6日公開予定、監督:山中瑶子)も控えている。




河合優実から目が離せないし、楽しみでならない。


この記事についてブログを書く
« 「九州交響楽団 第422回定期... | トップ | 鬼ノ鼻山~聖岳 ……ママコナ... »