一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

『康子十九歳 戦渦の日記』門田隆将(文藝春秋) ……美しき魂の記録……

2009年08月16日 | 読書・音楽・美術・その他芸術

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この夏に読んだ本の中では、断トツの一冊である。
帯に《『アンネの日記』を凌ぐ感動》とあったので、過剰表現かなと思ったが、そうではなかった。
本当に、一人の若い女性の生き方に、私は心を揺さぶられた。

昭和19年から昭和20年。
日本の歴史の中で、この時期ほど多くの悲劇を生み、前途に無限の可能性を秘めた若者たちが斃れていった日々はない。
この暗い時代に、若者は何を考え、どのように生きていたのか……
そして死んでいったのか……
戦没学徒兵の手記集『きけわだつみのこえ』や、山田風太郎の『戦中派不戦日記』をはじめとして大佛次郎、高見順、永井荷風、渡辺一夫、徳川夢声、中野重治、海野十三、伊藤整などの著名人の日記で、この時期に生きていた人々が何を考えていたのかの一端は知ることができる。
だが、これらの資料はすべて男性が記したものばかりだ。
ごく普通の、若い無名の女性の資料は案外少ない。
気鋭のノンフィクション作家・門田隆将の著した『康子十九歳 戦渦の日記』は、その数少ない貴重な記録と言っていいだろう。


粟谷康子(あわややすこ)。
大正15年1月5日生まれ。
東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)附属高等女学校専攻科3年に在籍。
当時の広島市長・粟谷仙吉(昭和20年8月6日の原爆によって死亡)の次女。
広島原爆によって、父や弟などの死を知らされた康子は、被爆してなお生き残った母親の看病のため、東京から焦土と化した広島に向かう。
そして、死を目前にした母親を助けようと献身的な日々を送る。
脱毛と鼻血、歯茎からの出血。
そして呼吸困難……その度に、康子は口移しで母に人工呼吸をおこなった。
が、昭和20年9月7日、母・幸代死亡。
享年41歳。
康子は、両親、弟らの遺影を抱いて帰京するが、やがて体調不良に陥る。
症状が母親とそっくりだった。
看病中に二次被爆していたのだ。
母親の死から僅か2ヶ月半後の昭和20年11月24日、康子死亡。
享年19歳。
20歳を目前にした死であった。


康子の死後60年余を経た現在、かつての友人たちは80代の老境を迎えている。
しかし、この若くして逝った乙女のことを、友人たちは今も折にふれ語り合っているという。
彼女を偲ぶ会を開いたり、追悼文集を出したりして……
何がそれほどまでに彼女を偲ばせるのか……
優れた感受性、思いやり、信念、毅然とした物の見方、家族愛……
自らの命をかけて家族への愛を貫いた康子は、その思いを綴った克明な日記と、兄弟や友人、知人に書き送った多くの手紙を残していた。
その資料を基に、康子にかかわった多くの人々に取材し、門田隆将が粟谷康子の青春を一冊の本に蘇らせた。
《これは、気高く、誇りを持って、最後まで希望を捨てず、家族の愛と日本の未来を信じた一人の若き女性の物語である》

昭和19年秋。
18歳の康子は、勤労動員され、東京第一陸軍造兵廠にいた。
旋盤をまわし、黄銅から砲弾の信管の原型をつくる火具旋造工場の第四区隊。
男子学生が力仕事をし、出来上がった信管を水で冷却し、ゲージで寸法をはかり、油で洗浄するのが女学生の役目だった。
康子と親友の竹内増枝がコンビを組んだのが、高木丈太郎、長瀬冨郎、梁敬宣という3人の中央大学予科の男子学生だった。
「男女七歳にして席を同じうせず」の教えが守られ、恋愛など許されることのなかった戦時下であったが、3人の男子学生は、コンビを組む女学生が女高師附属専攻科の才媛であることを知ってときめく。
油の匂いが充満し、あまりに殺伐とした兵器工場であったため、康子は自宅の庭で摘んだバラや水仙の花を持って工場に行き、男子学生にプレゼントした。
三人組は、その花を旋盤の穴に差して作業に励んだという。
高木丈太郎は、康子に今も強い印象が残っていて、
「粟谷さんは、特別、美人というわけではなかったが、気品のある女性でした。それまで女高師の専攻科といえば、才媛の集まりで、お高くとまっているという印象を持っていたんですが、粟谷さんにはそういうところがまったくなかった。聡明で、それでいて偉そうなところが全然ない。いかにもいいところのお嬢さんという感じでした」
と語っている。
3人の男子学生の中で、特に康子に心惹かれていたのは、台湾からの留学生・梁敬宣だった。
「粟谷さんには、なんとも言えぬ魅力がありました。色白で骨格は大きい人ではありませんでしたが、品格というか、奥ゆかしさを忘れない日本の女性という感じがしました」
「ある時、粟谷さんと文学の話をしたことがあります。私がたまたま読んだゲーテの詩の話をしたら、粟谷さんは、その詩を諳(そらん)じてくれたんですよ。びっくりしました。こっちはちょっとしか読んでないのに、この人はいったいどういう人なんだろう、と思いました。粟谷さんは、トルストイやゲーテをはじめ、世界の文学をなんでも読んでいました。気がついたら、私は粟谷さんに惹かれていました」
「あれは、昭和二十年の何月だったか、一度、粟谷さんが家に招待してくれて、高木と二人でお邪魔したことがあります。その時、たまたまお母さんも、弟の忍君もいました。玄関を入って右にある応接間に通されたら、ピアノが置いてありましてね。
“ピアノがあるね?”って私が言ったら、粟谷さんが“一曲弾いてみましょうか?”と言ってくれました。それで弾いてくれたのが『乙女の祈り』でした。素晴らしい調(しらべ)でした。粟谷さんは、下はスカートに上は白いブラウス姿だったと思います。あの姿と演奏は、今も鮮明に覚えています」
と、梁敬宣は後に述懐している。

運命の年、昭和20年が幕を開ける。
新年が明け、梁敬宣に誕生祝いの言葉をかけられた康子は、自分の誕生日まで覚えてくれていた梁に少し胸を熱くする。
「私は、ひょっとして梁さんに愛されているのかしら……」
恋愛など許されない戦時下である。
康子は、梁の純粋な愛国の情熱にたびたび感動し、尊敬できる数少ない同世代の人、と思っている。
だが、梁に対して、そうした親しみ以上の感情は持っていなかった。
康子が、ほのかに憧れていた男性は他にいた。
四区隊の区隊長・本位田巌少尉。
この当時、四区隊の女高師専攻科の女子学生たちの人気を一身に集めていた人物である。
まだ24歳の若者だったが、元気がよく、颯爽として、自信をもって学生たちに指示を与え、何事も断言してのける区隊長の態度に、康子はあこがれ以上の感情も持っていたかもしれない。
「区隊長殿も益々すきになりそうだ。若さ可愛さが存分に感じられ、しかも男性的な太い線がたのもしさを感じさせる」
「区隊長殿、益々すきになる。今迄よりずっとずっと又近づけた感じ。だって生ひ立ち記やあだ名や、高工時代の校歌迄伺ったのだもの。とても人間味豊かで純粋な方、始め入った時感じた様な堅い一方な方ではない、話せる点も相当なもの」
と日記に書くほど、康子は惹かれている。
実際、この本位田巌少尉は、実に魅力的な人物であったらしい。
軍人といえば、威張って人を殴ることがあたりまえだったこの時代、本位田は部下たちに手を上げることも、声を荒げることもなかったという。
四区隊の土田みどりは、本位田少尉を見て他の男性を見ると、とるに足らない存在に見えた、とさえ言っている。
「本位田さんは、威張らないし、言うことがスパッとしていましたね。男性的な魅力がありました。学生上がりの軍人ですから、こちらの気持ちが伝わる人だったと思います。みんな慕っていました。田舎臭い感じもしましたが、そこにすごく人間味を感じました」

昭和20年2月、帝都への空襲は激しさを増す。
そんな中、本位田区隊長の異動の噂が……
「区隊長が造兵廠からいなくなる」
「区隊長は南方に行かれるらしい……」
衝撃を受けた康子は、本位田区隊長に詰問する。
言葉を濁す区隊長であったが、どうやら本当らしかった。
康子は日記にこう書いている。
「今日の驚きとも悲しみともつかないこの気持、一体何と現はしたらよいものだらう。
あの区隊長殿がお変りになる…南にゆかれる…なんてそんな事信じられるだらうか。
(中略)
皆悲しんでいゐる、けれど私のこの悲しみのわかる人があるだらうか。やはり一番熱してゐたのは私だったのかしらとも思った。造兵廠へ来るのがたまらなく重苦しくなり、何の光明もなく通わねばならぬ時も近いのだと思はされる。
区隊長殿に対する自分の気持をはじめて“ここまでも…”と自身で知り得た思ひ。今迄こんなに男の人との別れで乱れた事あっただらうか。一体どうした自分なのだらうとこの気持をはっきり言葉にあらはすのは怖ろしい思ひがする。
たとへ今度お別れしてしまってもただそれ丈けの方ではない。
私の心には一生灼きついてはなれないおもかげ。又ゆめででもおあひするかもしれぬ」


昭和20年2月24日。
上野の雨月荘で、康子を含む女学生7人による本位田少尉の送別会が行われた。
女学生の一人・須賀貞子の実家がこの雨月荘だったが、空襲の続くこの昭和20年には物資も欠乏していたことから閉店していた。
料理人たちも国に帰していたので、貞子の母が一人で奮闘したらしい。
統制下で、肉も魚も、あらゆる食材が手に入らない時期のこと、それでも貞子の母の奔走で、奇跡のようなその会はおこなわれたのである。
乙女たちの夢のような時間があっという間に過ぎようとしていた……その時、空襲が始まる。
電気は消したが、誰も防空壕へ行こうとはしない。
本位田少尉がいるのに、どうして防空壕に行く必要があるか……乙女たちはそう思っていた。
暗闇の送別会。
乙女たちにとって、それは忘れられない思い出となる。
空襲が去り、帰り道は月灯りの下だった。
きれいに晴れ上がった星空を見ながら、誰もが幸せだった。
「あゝ素晴らしい夜!! 生れて始めて覚えた興奮、絶叫したい様な幸福感。今もあの時の胸の鼓動がきこえ、頬のもえる感じが残ってゐるかの様。
すべての飾りをとり去って心の底まで語りつくして下さった…私達も亦、一言々々に生命をかけてお話した。
警報下の暗やみの中でのしめやかなお話ぶり、爆弾落下の時のたのもしさ、ほろよい気分の少しもつれたろれつ、明き月光の下を御一緒に帰った時の幸せな気持。さういへば別れ別れに雨月荘へと向った時の恥かしいとも何とも名伏しがたい気持、ときめき…
すべて夢の様、いえ、あの日の、宵の思い出は私の夢。だれにもはなせない、文字にも表はせない たゞ胸の中に秘め、それを、想ひ起す度に幸せをかんじ、ほゝえみを禁じ得ない美しい夢、二度と見られないかもしれない若き日の夢。
忘れまい…この夜。あくまで清く澄んでゐた月の夜…」
康子の日記にはこのように綴られている。

本位田が造兵廠を去った日(3月9日)の夜、325機にも及ぶB29の大編隊が東京を襲う。
3月10日午前零時15分。
東京大空襲である。
10万を超えると言われる死者。
焼失家屋はおよそ28万5千戸。
東京市の3分の1に及ぶ40平方キロメートルが焼け野原となった。

3月21日、康子は、ラジオのニュースで、硫黄島が陥落したことを知る。
硫黄島陥落は、そのまま「本土決戦」への移行を表わしていた。
米機動部隊は、すでに沖縄を包囲し、沖縄本島に苛烈な艦砲射撃を加えていた。
4月5日、小磯国昭内閣が総辞職し、鈴木貫太郎内閣が発足する。
あくまで本土決戦を貫き、国民の最後の一人まで戦い抜くのか、それとも「終戦」に導くのか……いよいよ日本は追いつめられていた。
男子学生たちは、自分の「死」が近づいてきたことを感じていた。
もはや米軍は目と鼻の先まで迫っている。
赤紙が来ようが来まいが、内地に残っている男子として米軍と刃を交えることになることは間違いなかった。
中大予科の学徒たちも覚悟を決めていた。

4月6日、勤務を終え、帰宅しようとした時、康子は工場の入口で梁敬宣と遭遇した。
思い詰めたようすの梁。
「粟谷さん」
と、深刻な表情で康子の目を見つめて言った。
「粟谷さん、髪の毛を少しください」
それは、思い悩んだ末に、意を決して口にしたものだった。
「えっ……」
髪? 康子は全身に電気が走るのを感じた。
梁はすでに20歳になっている。
いつ召集令状が来ても不思議ではない。
そして、特攻隊を志願していた梁にとって、召集令状が来ることは、そのまま「死」を意味していた。
梁は、自分が死ぬ時、康子の、せめて髪の毛と共に死にたかったのである。
かなわぬ恋であるとは梁にもわかっていた。
でも、どうしても死ぬ時は康子と共にいたかったのだ。
康子には梁のその気持ちが痛いほどわかっていた。
康子は、梁を恋愛の対象として見たことは一度もない。
同じ職場で働く親しい友、そして気持ちのきれいな人、やさしい人……それ以上の存在ではなかった。
康子はそのことが申し訳なかった。
だが、そうだからといって、髪の毛の申し出を断わることはできなかった。
自分に全身全霊をかけてそう言ってくれる彼の申し出を断わることなどできるはずがなかった。
「ええ、差し上げます」
〈こんな私でも、あえて、それでもあえて梁さんは、私の髪を望んでいる〉
康子は自分の髪の毛を梁に渡すことを決めたのである。

一旦あげると言ったからには真心を込めて差し上げたい。
そして、そのことによって、自分のこれからの生活は、どうしても制約を受けるだろう。
自分の髪を持って戦場で戦う人がいることを思うたびに、自分の行動は自ずと真剣になるだろう。
その人に対して恥ずべき行動はとれないからだ。
この日の日記に、康子はこう記している。
「私のこれからの生活は、どうしても幾分束縛されるにちがひない
私の髪の毛をもって征った人がある… その人は今戦ってゐる… と思ふ時に。
けれど私はその束縛も或はいゝものかもしれないと考えてゐる
何故なら さう思ふ度に 私の行動は真剣にならずに居られまいと思ふから。その人に対して恥ぢない生活であらねばならぬと鞭打つから…。

明日 私は髪の毛を洗はうと思ふ」

康子が梁に髪の毛を渡したのは、翌々日の4月8日だった。
その日、康子に呼ばれた梁は、恥ずかしそうに差し出されたものを受け取った。
包みの中に、赤いリボンできれいに結ばれていた十センチほどの黒髪があった。
女の子らしい清潔感のただよう髪だった。
「ありがとう」
梁はそう言うと、
「これで……」
と言葉を接いで、次の言葉をぐっと呑みこんだ。
これで思い残すことなく死んでいけます――梁はそう言おうとしたのだ。
しかし、それを言葉に出したら、また康子に叱られてしまう。
以前、康子に、「特攻隊に志願する」と言った時、
康子からこう言われたのだ。
「特攻に行く人は、誇りです。しかし、それを強いるのは国の恥です」
「特攻は、あくまで目的であって手段であってはならないと思います」
この毅然としたもの言いに触れた梁は、それ以来、康子に対して畏怖の念を抱いていた。
康子は、特攻で死んでいく青年の潔さと純粋さを讃えながらも、それを強いる国家に対して「恥」という言葉で表現したのだ。
死に急ぐようなことを言えば、康子はきっと怒るだろう。
梁が髪の毛を受け取り、礼を言うと、康子は、
「よろしく……お願いします」
とだけ言って、去っていった。

5月になると、動員替えで、中大予科の学徒たちが去って行った。
6月になると、女高師の陸軍造兵廠の動員解除が決まった。
康子たち専攻科の面々は、新潟県への疎開が決定した。
康子の両親と長男・忍は広島。
長姉・素子は神戸。
次男・忠は山梨。
三女・近子は信州。
そして康子は新潟。
ばらばらになってしまった家族。
この時期、康子は兄弟たちと頻繁に手紙のやりとりをしている。
妹や弟たちが淋しがらないよう、元気づける言葉を贈っている。

8月6日、午前8時15分。
広島に投下された原子爆弾は、爆心地から2キロ以内の建物を跡形もなく破壊し尽くし、全市を阿鼻叫喚の地獄に陥れた。
爆心地点の近くで閃光の直撃を受けた人間の体は一瞬にして消滅したという。

8月15日、康子は玉音放送によって日本の敗戦を知る。
康子が父の死を知ったのは、翌16日の朝だった。
「粟谷廣島市長等犠牲」
新聞の片隅の小さな見出しによって知らされたのだった。
父の死を知り、康子は東京へ戻ることを決心する。
母や弟たちの消息も知りたかった。

8月18日、東京に戻った康子は、荒れ果てた東京の風景に愕然とする。
8月20日、東京の自宅に、高木丈太郎と梁敬宣が訪ねてくる。
康子の父の死を知り、弔問に来たのだった。
まさか康子が帰っているとは知らなかったので、高木も梁も驚いた。
「梁さん、お願いがあるの。私ね、広島に行きたいと思っているんだけど……」
突然、康子は梁に向かってこう言った。
この時期、一般庶民(日本人)に広島までの切符が手に入るはずがない。
戦勝国の国民である梁ならば切符が手に入るかもしれない……と康子は考えたのだろう。
康子は、どんなことをしてでも広島に行きたいと思っていたのだ。
〈いまだ安否の知れない母や弟の消息を知りたい……〉

梁は、中野駅に向かい、戦勝国の人間として身分証明書を見せ、切符を手に入れる。
梁は複雑な気持ちだった。
日本人として特攻隊に志願し、死ぬつもりでいた自分。
それが今では戦勝国の人間として、その特権を利用している。
切符は手に入れたが、「おまえは日本人ではない」と突き放されたような気分を味わっていた。
康子の運命を変えた広島行きの切符は、こうして梁によって手に入れられたのだった。

8月23日、長姉・素子から手紙が届く。
それにより、弟・忍と姪の絢子が死んだことを知る。
母親は重傷を負いながらも命はとりとめたという内容だった。
父ばかりでなく、弟や姪までが死亡していたことに康子は衝撃を受ける。

8月28日、康子は広島に降り立った。
康子と会えてほっとしたのか、母・幸代の容態は翌日から悪化する。
康子の必死の看病が続く。
「私は奇蹟をおこさうとしてゐる。母は、もう医者から見放されてしまった
一人ならず、三人四人の医者がもうだめだといふ
見舞客は帰りがけにそっと私に悔みをのべる。しかし私は母を救ふつもりだ。生命がけで…」
脱毛、鼻血、歯茎からの出血、呼吸困難……
「死なせちゃいけない、死なせちゃいけない……」
康子は口移しで人工呼吸を行い、一睡もしない看病の日々が続く。
だが、その甲斐もなく、9月7日に母・幸代はこの世を去る。

康子が東京の自宅に帰り着いたのは、9月の半ばだった。
熱が下がらず、胸の痛みが引かない妹を気遣って、姉の素子が東京までついて来ていた。
麻酔なしの乳腺の手術をするが、症状は悪化の一途をたどる。
悪寒、高熱、意識障害、節々の痛さ……母親と同じ症状だった。

「粟谷さんが重態らしい」
その報は、専攻科だけでなく、造兵廠時代の仲間、中大予科の学徒たちにも伝わっていった。
康子に思いを寄せていた梁敬宣の耳に入ったのは11月の下旬だった。
11月21日、梁は、とるものもとりあえず、粟谷家を訪ねた。
呼び鈴を押すと、姉の素子が出た。
「ちょっとお待ち下さい。いま康子に聞いてきます」
すでに重態に陥っているだけに、面会は難しかった。
だが、奥から戻ってきた素子はこう言ったのだった。
「いま、康子がお化粧しますから、少しお待ちいただけますか」
応接間で10分か15分ほど待たされ、梁は奥の日本間に通された。
そこに康子はいた。
うっすらと化粧をした康子の唇には、口紅がひかれていた。
髪の毛を隠すかのように、頭には何か、かぶりものをしていた。
梁は「美しい」と思った。
「梁さん」
にっこりほほ笑んだ康子は、梁に向かってこう言った。
「私ね、昨晩、白い馬車が私を迎えに来た夢を見たのよ」
迎えが来る……
〈康子は死を悟っている〉
梁はそう思った。
それから何を話したのか梁はあまり覚えていないという。
〈うっすらと頬に紅をさした彼女は、こんなに綺麗じゃないか〉
〈これほど美しい人間が死ぬはずがない〉
と、そんなことばかり自問自答していたようだ。
別れ際に、
「お大事に……」
と言うと、康子から返ってきた言葉は、梁にとって最もつらいものだった。
康子は涙ぐんでいた。
「梁さん……」
やっと、康子はそう呼びかけると、
「お世話になりました」
と、告げたのである。
それは、今生の別れを告げる挨拶だった。
康子が19年の短い生涯を閉じたのは、それから3日後の昭和20年11月24日午後11時であった。

梁敬宣は、康子が亡くなってから、生きる気力を失ってしまった。
今にも死にそうな梁を見て、このままでは危ないと、親友の高木丈太郎が平塚の実家に呼んで半年以上暮らしたという。
でも結局、日本にいるのが辛くなり、昭和22年に梁は台湾に帰って行った。

平成19年4月25日。
梁敬宣は、粟谷康子の墓の前に立っていた。
「粟谷さん、久しぶりだねぇ……。ここに来るのに“六十年”もかかってしまったよ」
そこに康子がいるかのように、梁は語り出した。
「私も八十二歳になりました。長い長い時間が経ちました。私はこの世の中で、幸福に暮らしています、皆さんも、天国で、家族団欒、楽しく暮らしていると思います。
あなたからもらった髪の毛は、台湾の土にうずめました。その上にバラを植えました。そして今、花が咲いている。私は毎日それを見て、心からあなたに“思い”を致しております」
梁は、持ってきたショルダーバッグの中から、一枚の写真を取りだした。
一輪のバラの写真だった。
「粟谷さん、これは、あなたの髪を埋めた場所に咲いたバラです。今も咲き続けている。六十年もだよ……」
新緑の香りをのせた爽やかな風が墓所を吹き抜け、その風に写真がふわっと飛ばされそうになった。


粟谷康子、それに本位田巌と梁敬宣の3人を中心に物語の筋を追ってみた。
だが、本書には、もっと多くの登場人物がいる。
タイトルは『康子十九歳 戦渦の日記』となっているが、中身は「粟谷家の人々」と言ってもおかしくないような内容になっている。
重層的だし、必ずしも康子の事ばかりが書かれているわけでない。
そういう意味では、「タイトルに偽りあり」だ。
著者が物語の進行にばかり気を取られていたためか、日記の抜粋もそう多くはない。
そこが、やや不満の残るところだ。
もっと康子本人の日記からの生の声を聞きたかったと思う。
そんな不満はあるものの、それを差し引いてもなお、本書の価値はいささかも失われないだろう。
それほどの佳作だと思う。

粟谷康子……
このような女性がいたことを知らしめてくれたこと……
それを何よりも感謝したい。

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