ブログへの訪問者数の日別ランキングで、
第9位になった翌日、
何気なくアクセス状況を見ると、
なんと、またまた第9位になっていた。
昨日、
ベスト10に入ったのは2度目だけれど、
3度目はないと思うので、(笑)
記念としてここに残しておこうと思った。(コラコラ)
と書いたばかりなのに、
3度目がもうやってきたのである。
「二度あることは三度ある」
……けだし名言。
それでも4度目はないと思うので、(笑)
記念としてここに残しておきたいと思った。(オイオイ)
いつものように前置きが長くなった。
すまない。
今回は、球磨川の思い出を書いてみようと思う。
球磨川は、熊本県水上村を源流とし、
人吉盆地や八代平野を通って八代海に注ぐ1級河川である。
延長115キロは九州の河川で3番目の長さで、
流域面積1880平方キロ、
流域人口約13万人。
ラフティングや船下りが地域の観光シンボルとして知られる。
その球磨川が今年(2020年)7月4日、氾濫した。
雨が強まった7月4日の未明から急激に水位が上昇し、
午前4時前には「中流」で堤防を越え、
2時間後の午前6時ごろには「上流」でも堤防を越えて氾濫が発生した。
その後も水位は上がり、
午前7時すぎには、距離にしておよそ60キロの範囲で氾濫が相次いだ。
これは、全長115キロの球磨川の半分の長さにあたり、
水位が最も高い場所では、堤防を5メートルも上回り、
氾濫していた時間は、最も長い場所で半日近い11時間半にわたった。
日本三大急流の一つで「暴れ川」の異名を持つ球磨川であるが、
今回の氾濫による浸水深が、
戦後最大とされてきた「昭和40年7月洪水」を上回り、
記録に残る球磨川水害では最大級だった。
氾濫する球磨川のニュース映像を見ながら、
私は、1995年に行なった徒歩日本縦断を思い出していた。
1995年10月下旬、
私は八代から人吉に向けて球磨川沿いの道を歩いていた。
当時、私は、旅先から地元紙に原稿と写真を送り、
旅と同時進行で「ふらふらぶらぶら日本縦断の旅」という紀行文を連載していたのだが、
その中から少し引用してみる。
大牟田、熊本を過ぎ、八代に着いた十月二十一日の夜は、幸運なことに「やつしろ全国花火競技大会」が開かれていた。今年で八回目ということで、全国各地から集まった花火師たちが、それぞれ5号玉、10号玉を打ち上げて、その色彩や技術を競っていた。他の花火大会では見られないような芸術的(?)な花火が多く、一発打ち上がる度に、大きな拍手と歓声が沸き起こっていた。
八代からは球磨川に沿って歩いた。途中、陽が傾きかけてきたので、大きな谷間の河原でテントを張った。深夜、テントの入口を開けて空を見ると、漆黒の夜空に、溢れんばかりの輝く星々があり、星花火という言葉が思い出されるほど美しく、いつまで見ていても飽きるということがなかった。その夜、ぼくは、球磨川の流れの音を子守歌にして、星々のシュラフに包まれて眠った。
球磨川沿いの道を、
「球磨川下り」する様子を眺めながら歩き、
陽が傾いてきたので、球磨川の河原にテントを張った。
「その夜、ぼくは、球磨川の流れの音を子守歌にして、星々のシュラフに包まれて眠った」
と、なんとまあロマンティックなことを書いているが、(笑)
本当は、球磨川沿いの道路を走るトラックの音でほとんど眠れなかったのだ。(爆)
その眠れなかった夜のことを、私は、
夏樹静子さんのこと ……小さな、そして極私的な、二つの思い出……
と題してこのブログに書いたときに、
次のように記している。
あれは熊本県の球磨川の河原でテント泊しているときだった。
その日はなかなか眠れず、
テントから顔だけ出して、満天の星を眺めていると、
何の脈絡もなく、ミステリーのトリックが思い浮かんだのだ。
それをノートに記しておき、
旅から帰った後、
そのトリックを使って、原稿用紙90枚ほどのミステリー小説を書いた。
それを、地元の新聞社と企業が主催する大衆文学賞に応募した。
その賞は、当時、佐賀県に住まわれていた作家・故笹沢左保さんの提唱で生まれた文学賞で、
笹沢左保さんの他、森村誠一さんと、夏樹静子さんが選考委員を務められていた。
地方の小さな文学賞であったが、選考委員は豪華であった。
(全文はコチラから)
その応募作は、最終候補作まで残り、結果、受賞に至るのであるが、
あの眠れない夜がなければ生まれない作品であったのだ。
いろんな意味で思い出に残る「球磨川の河原でのテント泊」であったのだが、
氾濫する球磨川の映像を見ながら、
〈私がテントを張ったあの河原も、水の底であったのだな……〉
と恐怖心を抱くと同時に、
あの懐かしい風景がすべて失われてしまったことに対する無念の思いも沸き起った。
この球磨川の源流を訪ねた山旅をしたこともある。
2009年5月、
当時、所属していた山岳会の月例山行で行ったのだが、
こちらも強く思い出に残る山旅だったので、
再録し、皆さんと思い出を共有できればと思う。
球磨川水源を求めて ……あなたの最も好きな場所……
私の好きな作家の一人に、福永武彦がいる。
『草の花』『廃市』『海市』『忘却の河』『死の島』など、魅力的な作品が多い作家だ。
彼の作品の中に、それほど有名ではないが、『あなたの最も好きな場所』という印象深い短編小説がある。
河出文庫の『幼年』という作品集に収められていたが、この文庫は長く品切れ状態が続いているので古書店で探すしか方法はないかもしれない。
『福永武彦全集』の第7巻にも収められているので、図書館で読むのという手もある。
この短篇は、次のような書き出しで始まる。
君を連れて行きたい場所があるんだ、と男は言った。どうだろう、僕と一緒にそこへ行ってみないかい?
ええ、いいわよ、と女は答え、眼をくるくると動かした。どういうところなの? 此所から遠いの?
書き出しからして、読者を惹きつける磁力のある小説だ。
小説の内容まで書いてしまうと作品を読む楽しみを削いでしまうと思うのでここには書かないが、内容と同様に、この短篇小説のタイトルも実に魅力的だと思うのだがどうだろう?
なぜこんな話をするかというと、今回のレポのタイトルを考えている時、この小説のタイトルが突然浮かんできたからだ。
一ヶ月ほど前、ある山友に、
「山岳会の5月の月例山行で、球磨川源流に行くんだ」
と話すと、その山友は、
「そこには以前行ったことがあるけど、とっても良い所でしたよ。私の好きな場所です」
と答えた。
球磨川源流行は山頂を目指すものではないので、参加については「どうしようかな?」と思っていたところだったので、その山友の勧めはこの山行に参加する決め手となった。
その山友の「最も」好きな場所なのかどうかは知らないが、少なくともかなり好きな場所であることには間違いないので、このレポのタイトルには、福永武彦の短篇小説のタイトルをそのままを使った。
早朝5時に唐津を出発したマイクロバスは、10時30分に、源流行の出発地点の源流橋駐車場に到着した。
今日の球磨地方の天気予報は、「雨」。
雨にもかかわらず参加した山岳会員は20名。
+3Kさんは都合により参加されてなかったが、テツさん、イチさん、アキさん、メイビさんなど、私と親しいいつものメンバーは参加されており、嬉しかった。
雨はすでに降り出しており、木陰で急いで雨具を装着した。
11:50
源流橋駐車場を出発。
11:03
不思議な形の杉の巨樹に遭遇。
奇妙な枝ぶりに唖然とし、しばし魅入る。
やや荒れ気味の谷。
いくつかの谷を横切る。
11:23
危険ルートと安全ルートの分岐にさしかかる。
ここで、危険ルート15名、安全ルート5名に分かれる。
私は危険ルートを選択。
危険ルートとなっていたが、注意して歩けば問題なかった。
雨は強弱を繰り返しながら絶えず降り続いていたが、雨の中の山歩きも楽しかった。
新緑がことのほか美しい!
途中、いくつかの滝があった。
雨音、それに滝の音が、私の耳朶を洗い続けた。
12:15
球磨川水源に到着。
短時間で着いた為、なんだか呆気なかった。
水源には石碑がいくつも建っていた。
石碑の下から湧き出る水。
〈球磨川はここから始まるのだ〉
そう思うと、感慨深かった。
激しい雨の為、昼食は下山後に、マイクロバスの中で摂ることになった。
この水源の水で珈琲を飲もうと、ガスバーナーとガスカートリッジを持ってきていたが、ちょっと残念!
ペットボトルに水源の水を汲んで帰り、家で珈琲を飲むことにした。
皆も水源の水をお土産にしていた。
水源の場所から下を見ると、こんな感じ。
天気が良ければ、ずっとここにいたいと思わせるような素晴らしい場所だ。
あなたが「好きな場所」と言ったのが、とてもよく解った。
今日からは、私にとってもここは「好きな場所」になった。
12:28
球磨川水源を出発。
今度は、安全ルートで戻ることにする。
ヤマシャクヤクの花はすでに終わっていたし、この時期、花は少なかった。
目立っていたのはフタリシズカ。
雨に濡れ、ヒトリシズカの葉のように光沢のある葉になっていた。
新緑、それに仲間とのお喋りを楽しみながら、ゆっくり下る。
13:31
源流橋駐車場に戻ってくる。
雨の中の山行であったが、実に楽しかった。
新緑に彩られた谷は美しかったし、雨に打たれていると山の精気を絶えず注入されているような錯覚に陥った。
指の先まで緑に染まっていくようであった。
帰路、五木温泉で疲れを癒し、道の駅「五木」で土産を買った。
帰宅後、さっそく球磨川水源の水で淹れた珈琲を飲んだ。
実に美味しかった。
脳裏に球磨川源流の新緑の谷が蘇り、耳の奥で沢と滝の音が響いた。