私は学生時代(広島市中区で暮らしたのは僅か1年半)にあまり路面電車に乗らなかった。帰省の際に広島駅へ向かうのに利用したのはバスだった(それも荷物が多い時だけで殆ど徒歩での移動だった)。節約に努めていた私が皆実線に乗ったのは一度きりだ。
昭和63年(1988)の春休みに父が突然下宿を訪ねてきて近くの小汚い中華料理屋で食事をして広島駅まで見送ることになった。福山から滅多に外に出ることのなかった父を路面電車に乗せてやりたいと思って比治山橋を渡るルートをとっさに選択したのだと思う。
昭和14年(1939)9月に完成した比治山橋(橋長:約148m)は被爆橋梁でもある。強烈な熱線を浴びた親柱の近く(東詰)に古びた道標があることを初めて知った。広島電気株式会社と土手町在住の坂本常蔵氏の寄贈によって大正10年(1921)に建てられたものだと分かるが、謎の多い被爆建造物である。
欠損部に刻まれていた文字には諸説あり、また建立目的がいまいちはっきりしない点に興味をそそられる。私はマンションが建ち並ぶ界隈へ歩いて行くことにした。橋西詰の住所は広島市中区鶴見町及び昭和町になる。
昭和63年(1988)の春休みに父が突然下宿を訪ねてきて近くの小汚い中華料理屋で食事をして広島駅まで見送ることになった。福山から滅多に外に出ることのなかった父を路面電車に乗せてやりたいと思って比治山橋を渡るルートをとっさに選択したのだと思う。
昭和14年(1939)9月に完成した比治山橋(橋長:約148m)は被爆橋梁でもある。強烈な熱線を浴びた親柱の近く(東詰)に古びた道標があることを初めて知った。広島電気株式会社と土手町在住の坂本常蔵氏の寄贈によって大正10年(1921)に建てられたものだと分かるが、謎の多い被爆建造物である。
欠損部に刻まれていた文字には諸説あり、また建立目的がいまいちはっきりしない点に興味をそそられる。私はマンションが建ち並ぶ界隈へ歩いて行くことにした。橋西詰の住所は広島市中区鶴見町及び昭和町になる。