■一汁一菜でよいという提案
■土井善晴
■株式会社 グラフィック社
■初版第一刷 2016年10月25日
私は集中して読み込む質なので、読書は早い。されど、この書は、途中で何度も閉じて、考え込んだ一冊となった。
ご尊父と同じように家庭料理の指南者としての道を歩んだ方が、いま何故、一汁一菜でよいと伝えるのか? 私の疑問の応えになるかと、手にとった。
食は命を司るもの、喜びの日も失意の日も、人は食べて生きていかねばならないものと、私は考えている。作る喜び、食す喜び、沢山の学びと驚きに繋り、時に時間すら越えて思い出を甦らせてくれることを知っている。
何かが少し違うと思ったのは、数年前だった。
ひたすらに明るく、彩りが弾けるような食写真が、毎日持て囃されるネット世界をちょっと横目でみていて。
ニュースでは、学校給食以外に食べる機会がない子供のために、地域で食堂を運営するという話をきく。
食は人の生活を写す鏡のようなもので、流行り廃りも、地域差も大きいと解っていても……あまりに不自然な気持ちがした。
この国の食は、こども達は、どうなってしまうんだろう……。
だから、何十年にもわたって、日本の家庭に食を伝えてきた人達は、何を思っているのかと、貪るように読み始めた。
この本は、昔ながらのご飯、味噌汁、香の物の献立を作りなさい、の勧めではなかった。生活の形を調えるためのスタイルとして、一汁一菜にたち戻るとは、どういうことかを、伝えようとして書かれた本であると、私は思う。
著者は、初めにいう。
献立が考えられない、料理が億劫、めんどうと言う方に、この本を読んでほしい、と。
見映えのするおかずを沢山つくらなきゃ、栄養をとらなくちゃ、皿数が並ばないとミットモナイ、ご飯は不要……それに囚われて、疲れてしまうことは、本質ではないのではないか?と、著者は問う。
季節のある物を味噌汁に満たし、ご飯と、塩をあてた野菜=香の物、とを、丁寧にお膳に並べて、箸を揃える。
一汁一菜の形を調えて、それを頂くことが、日本の食の姿、基本であって不足が無かったはずだ、と。
足りなければ、お代わりをすれば良い。これだけを作ると思えば、毎日、やれないことがあるだろうか、と。
見せるつもりの無かった、と言う著者のプライベートの食の写真が並べられる。いつの季節か、他人が見て解る、一汁一菜のお膳(=ひとり盆)。
晴れの日ではない、ケノヒ=日常のありのまま。料理指南者の、暮らしの工夫を感じる、一汁一菜の当たり前さに、思わず微笑む。ベーコンとおくらの味噌汁、じゃが芋に落とし玉子の味噌汁、じゅんさいと豆腐のお椀。すいとんのお膳の日にはご飯がない(ニッコリ)。
書籍の次の頁には、晴れの日の美しいお椀、お膳が現れる。見事に調えられた豊かな食。
暮らしのなかのメリハリ…いや、神様に感謝する食と、毎日の基本の暮らしの違いを見るように感じた写真たちは、印象的だった。
著者は続ける。毎日の暮らしのなかの食事とは何か?
大切なことは、一日いちにち、自分自身がコントロールしている、心の置き場=食卓に、たち戻るという、生き方のリズムを作ること、だと。
今日、手にはいる食材(=旬の地産地消材料)で、味噌汁を作り、ご飯と、季節の野菜の塩漬けを案配する。
足りなければお代りすればよい。季節のものだから、美味しくないときもあってもよい。
だけど、一生懸命、作り続けること、この三角の落ち着いたお膳の前に、食事をすると思って揃うこと。感謝して、食す毎回があること。
ここを基本とすることで、毎日の暮らしをたてていく拠り所が在る、生きるスタイルを衛る姿勢。
いい日ばかりでなく、煩わしいことがあっても、一汁一菜のお膳に向き合って、自分自身がコントロールする基本にたち戻ることが大切だと、著者は繰り返す。
毎日の食事を一汁一菜と決めれば、悩ましさや面倒さから自由になる。それを毎日繰り返していれば、飽きも生まれるかもしれない。
そんな折りに、季節の魚をみて、焼こうかと思って整えて、家族も嬉しい、美味しいといってくれれば、そこに食を調える苦痛はないでしょう。できたことに喜びがあり、弾む会話に豊かさを感じるでしょう。
家族を喜ばせた満足感に、また用意してやりたいと思うでしょう。それは一汁一菜から生まれた気持ちです。
そうして、おかずが増えれば、汁物は足りないものを補うだけで良く、ひとりのお膳のなかでバランスをとれば、それが栄養を考えることになるのです、と著者はいう。テレビでの語り口通りの朴訥な言葉で。
器を選ぶのも、到来ものを分かち合うのも、基本の一汁一菜の先にうまれる、喜びの姿。
食事はすべてのはじまり。生きるスタイルとしての一汁一菜を、いまだからこそ、提案したいと、著者は後書きにも述べていた。
基本のある生活。自分が一生懸命生きることの基本を映したのが食。
自分が一生懸命、いきる姿を食に示して、子供を育てる場所が家庭の食卓でありたいと願う著者。
頁をくる私の手を止めたのは、暖かい涙。
あの時、あの食、おの声、思い当たるたくさんの瞬間。
自分に向けた、お上がり!の言葉。美味しいっという私に向けられる笑顔、もっと沢山お上がりっと、はげます言葉。(ニッコリ)
家族であろうとなかろうと、お互いに渡される喜びが、本当の栄養=糧(かて)だったのだと、気づき直す現在。
いま自分は作る年齢側にたって。
疲れていて、考えるのが嫌になっていても、自分が調えた食に、励まされているのは、実は自分だったのだと知る。
自分がコントロールする暮らし、生きて幸せと思う、一つの手技なのだと、気づき直す書籍だった。
貴方が食を大事に想う方なら、ぜひ手にとっていただきたい一冊です。
(過労死予備群 謹読)
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もう、もう今日の記事のグッと来た感じといったら…‼
思わず「ああー…、その気持ち、わかる、わかります…‼」と画面に
つぶやきながら見入ってしまったクマ晴です~(苦笑)
一汁一菜。
本当に奥深い概念だったのですね。
正直、予備群さんのこのレビューをよまずに私が一汁一菜を実践したならば、
食事をつくるごとに、きっとなにか気まずさとかうしろめたさを感じたかもしれません。
「手、抜いてるかな、これ…。
健康的な食事なはずなんだけど、なんだかごめん…。」
みたいな。
でも一汁一菜の本質は、「生活の形を調えるためのスタイル」「生き方のリズム」だなんて!
いやはや、考えてもみませんでした。
ほんと、ジャスト・ナウ・コペルニクス的転回です。
そして、予備群さんをして、こうまで言わせしめる本ならば‼と思い、先ほどアマゾンでポチっとしてまいりました( *´艸`)
明日届くのですが、本が到着するのがこれほどまでに楽しみなのは久しぶりです。
それもすべて、予備群さんのおかげ。
予備群さん、ほんと感謝&感謝です。
あと、「季節の魚をみて、焼こうかと思って整えて、家族も嬉しい、
美味しいといってくれれば、そこに食を調える苦痛はないでしょう。
できたことに喜びがあり、弾む会話に豊かさを感じるでしょう。」
という、この2文。
すごいです。
思わずその幸せであたたかな光景が思わず目に浮かび、文章力が涙腺を直撃しました。
超鼻ツーンです。ちょっと痛いくらい(笑)。
予備群さんの文章力、ほんと本職の方のそれと遜色ないなぁ、すごいなぁ、と本気で思います。
私なら、たとえ脳のCPUをどれだけカリカリ言わせても、きっと予備群さんの1%すらかけません(笑)。
いやはやこのレビュー、個人的に来年くらいから小学校高学年の国語の教科書に載ってもいいんじゃないかなー、なんて本気で思うクマ晴なのでした。
(※おうっ、なんだか思いのほかコメントが長くなっちゃってごめんなさい( ;∀;))
そしてもちろん、全応援です~♪
このコメントを頂いた直後に、嬉しくて、ウルウルしました。暖かい言葉を、ありがとうございました。
そして、クマ晴さんが変わらずお元気で春を迎えてくださることも感じて、嬉しくなりました(ニッコリ)。
色々な情報が目まぐるしく溢れるようなネット社会に生きていて、本当の言葉はどれなんだろうと、途方にくれること、多くなりました。
丁寧に読んだり、考えなくては!と、思いますが、なかなか追いつきません(苦笑)。
でも、忘れてはならないことは、きっとある。それを書き留めておきたいと思いました。
クマ晴さん。想いを受け取ってくださって、ありがとうございました!
どうぞ、いい週末をお過ごしください。またお会いできますように。