冬期の短い間しか水が澄んだことが無い池なので冬期はともかくとしてもシーズン中は濁りがあって水中の様子は定かではないのだ。それでも水底に根を張り成長を続けるオオカナダモは水面近くまで育てば存在の確認が取れる。昨季晩秋に抜去し今期の春の再萌芽を確認し水の冷たい頃に抜去開始したのだが恐らく今回で今期四回目にはなっているはずでもしかしたら五回目だったかも知れない。
斯様にオオカナダモの根絶は難しく除去するたびに取り残しや千切れた部分が浮遊沈降して新たな場所で生育をするのだろう当初の抜去範囲よりも広がりを見せつつもあるのだった。数種のヒッツキムシの抑制をしたかったけれどオオカナダモの環境への悪影響が大きいのでオオカナダモの抜去に入った。身支度は胸までの胴長にゴム引き手袋、腰には必須の蚊取り線香を装着である。ようやく煩わしいメマトイのストーカーが去ったと感じる時期になると今度はウシアブの出番になる。
駐車場に降り立てば直ぐに数匹のウシアブが車体やタイヤに飛びついてくる。温度を感じて寄ってくるのだと理解はしているがいつ何時わが身にまとわりつくか知れないので捕虫網で捕らえて間引く。まあ、数匹程度を間引いたところで何の役にも立たない言わば気分的行為であるが捕まえたアブは蟻の巣穴近くに置くと早速アリたちにより巣穴に消えていく。その様子を爺っと眺めているのはファーブル少年なのであった。
さてオオカナダモの抜去も体験的に論じれば「歩いても歩いても小舟の様にナンチャラカンチャラ…」に似て「抜き取って抜き取ってタライに入れてもまた同じ日がウンザリサンザンナンャラカンチャラ…」はお約束だ。さて装備品はタライにロープを結わえ真竹の杖をロープで括る。その中には長柄の貝掘り熊手を入れ水域に立ち入るのだ。杖とタライを結びつけておくのは必須でそうしないとタライは遥か太平洋に流れ出すかも知れないし真竹の背丈を越える杖が無ければ深い泥の中で脚を運ぶのに難渋しあえなく沈しかねない。杖を使っても膝近くまである泥の中では不用意な動きをすれば容易に沈は発生する。いくら生まれも育ちも南魚沼の雅な米作農家出身の朕とは言え沈は願い下げなのだ。
さて抜去は濁った水中に手を入れてオオカナダモの根元をまずは確認しその周囲に貝掘り熊手を突き入れユサユサと遊動させつつ泥から引き抜く。短気を起しざっくりとやろうものなら茎や根はは千切れ更に拡散させることになりかねない。まあ、根気根気・辛抱辛抱・短気は損気と言い聞かせつつの四つ這い作業である。
水中に素肌を晒すのには一抹の不安もある。ゴム引き手袋は装着していても手首から二の腕までは露出している。この部分にセルカリアによる皮膚炎を発症する恐れは多分にあるのだ。今期の棚田部に青刈り用・環境植生として育苗バッド2枚分の水稲を植えつけたのだがその時に軽微ではあったものの手首から指先までの軟らかい部分に赤色丘が発生した。受診はしなかったもののネットの画像と比較すれば紛れもないセルカリア皮膚炎だったのだ。
そんな一抹の不安はあっても長いゴム手袋では指先の感覚が鈍る。それでなくても高齢化は日々進行し低年金化も止む事が無い。ゴム引き手袋も結果的には外しての作業になった。時間にしては小一時間足らずなのだが沈と感染リスクを抱えての真夏日の作業は何とか無事に済んだのであった。それでも秋風が立つ頃にはまた抜去に入る必要がある。どこの阿呆がこういう種の投入を行ってくるのか確認の仕様が無いのが更にシャクの種でもある。尺取虫の動きは優雅でもシャクの種は枯れる事が無く不愉快極まりない。個人が特定出来たら泥の中に引きずり込みたいのが正直なところである。
とにかくまあ、そんな事で冷静にはなれない抜去なのであるが視点を変えれば尺取虫と同じ動きだ。「一つ取ってもう一つ」の繰り返し。人生は尺取虫だ!。それも泥に脚を取られた尺取り虫である。アンガーコントロールで「泥中麗花」と自己認識させようと思いつつも全身汗水泥まみれでの孤爺ではのう…身の程はまだまだ知っておるわい。
斯様にオオカナダモの根絶は難しく除去するたびに取り残しや千切れた部分が浮遊沈降して新たな場所で生育をするのだろう当初の抜去範囲よりも広がりを見せつつもあるのだった。数種のヒッツキムシの抑制をしたかったけれどオオカナダモの環境への悪影響が大きいのでオオカナダモの抜去に入った。身支度は胸までの胴長にゴム引き手袋、腰には必須の蚊取り線香を装着である。ようやく煩わしいメマトイのストーカーが去ったと感じる時期になると今度はウシアブの出番になる。
駐車場に降り立てば直ぐに数匹のウシアブが車体やタイヤに飛びついてくる。温度を感じて寄ってくるのだと理解はしているがいつ何時わが身にまとわりつくか知れないので捕虫網で捕らえて間引く。まあ、数匹程度を間引いたところで何の役にも立たない言わば気分的行為であるが捕まえたアブは蟻の巣穴近くに置くと早速アリたちにより巣穴に消えていく。その様子を爺っと眺めているのはファーブル少年なのであった。
さてオオカナダモの抜去も体験的に論じれば「歩いても歩いても小舟の様にナンチャラカンチャラ…」に似て「抜き取って抜き取ってタライに入れてもまた同じ日がウンザリサンザンナンャラカンチャラ…」はお約束だ。さて装備品はタライにロープを結わえ真竹の杖をロープで括る。その中には長柄の貝掘り熊手を入れ水域に立ち入るのだ。杖とタライを結びつけておくのは必須でそうしないとタライは遥か太平洋に流れ出すかも知れないし真竹の背丈を越える杖が無ければ深い泥の中で脚を運ぶのに難渋しあえなく沈しかねない。杖を使っても膝近くまである泥の中では不用意な動きをすれば容易に沈は発生する。いくら生まれも育ちも南魚沼の雅な米作農家出身の朕とは言え沈は願い下げなのだ。
さて抜去は濁った水中に手を入れてオオカナダモの根元をまずは確認しその周囲に貝掘り熊手を突き入れユサユサと遊動させつつ泥から引き抜く。短気を起しざっくりとやろうものなら茎や根はは千切れ更に拡散させることになりかねない。まあ、根気根気・辛抱辛抱・短気は損気と言い聞かせつつの四つ這い作業である。
水中に素肌を晒すのには一抹の不安もある。ゴム引き手袋は装着していても手首から二の腕までは露出している。この部分にセルカリアによる皮膚炎を発症する恐れは多分にあるのだ。今期の棚田部に青刈り用・環境植生として育苗バッド2枚分の水稲を植えつけたのだがその時に軽微ではあったものの手首から指先までの軟らかい部分に赤色丘が発生した。受診はしなかったもののネットの画像と比較すれば紛れもないセルカリア皮膚炎だったのだ。
そんな一抹の不安はあっても長いゴム手袋では指先の感覚が鈍る。それでなくても高齢化は日々進行し低年金化も止む事が無い。ゴム引き手袋も結果的には外しての作業になった。時間にしては小一時間足らずなのだが沈と感染リスクを抱えての真夏日の作業は何とか無事に済んだのであった。それでも秋風が立つ頃にはまた抜去に入る必要がある。どこの阿呆がこういう種の投入を行ってくるのか確認の仕様が無いのが更にシャクの種でもある。尺取虫の動きは優雅でもシャクの種は枯れる事が無く不愉快極まりない。個人が特定出来たら泥の中に引きずり込みたいのが正直なところである。
とにかくまあ、そんな事で冷静にはなれない抜去なのであるが視点を変えれば尺取虫と同じ動きだ。「一つ取ってもう一つ」の繰り返し。人生は尺取虫だ!。それも泥に脚を取られた尺取り虫である。アンガーコントロールで「泥中麗花」と自己認識させようと思いつつも全身汗水泥まみれでの孤爺ではのう…身の程はまだまだ知っておるわい。
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