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短編小説「惚れた女が死んだ夜」

2017-09-13 06:29:48 | 短編小説

都月満夫

 

 

アタシは酒場の聞き女。ビルの谷間の人情小路。小さな酒場のママだけど、どんな話も聞いてやる。聞いて笑って泣いてやる。

七月末の暑い日だった。いつものようにお店に出勤。小路へ入って、ふと見ると、男が一人座ってる。お店の前に座ってる。ドアを背にして座ってる。肩を震わせ座ってる。

「おや、嫌だね。誰だろう?」

アタシは近づき覗き込む。

「あ~ら、ユーさん、柚木さん。こんなところでどうしたの?」

男は馴染みのお客さん。柚木満夫というお方。几帳面な経理マン。

「ああ、ママさん、悪かった。驚かして悪かった。朝からこうして座ってた。どうしていいかわからない」

「朝からここにいたのかい? ご飯も食べずにいたのかい?」

「そうだよ、ママさん情けない。飯も食えない、食ってない」

「何があったか知らないが、まあ、とりあえずお入りよ。今、鍵を開けるから…」

アタシは荷物を下に置き、鍵を差し込みドアを開け、男を中へと導いた。

「とにかく、どこかにお座りよ」

ユーさんは黙って、いつもの席につく。カウンターの端の椅子。そこはいつもの指定席。

アタシは奥へと荷物を運び、荷物を置いて声かける。大きな声で声かける。

「開店前の仕込みはあるが、とにかく話は聞いたげる。何があったと言うんだい?」

言いながら、水にぬらしてタオルを絞り、絞ったタオルを差し出した。

「その前に、とにかく汗をお拭きなさい」

ユーさんは額の汗をタオルで拭い、顔から首へと汗を拭く。汗と一緒に涙も拭う。ユーさんは唇噛んで泣いている。肩を振るわせ泣いている。声は出さずに泣いている。

「どんなことがあったのか、とにかく話してごらんなさい。アタシにゃなんにもできないが、聞くことだけはできるから…。話せば、少しは楽になる。アタシは仕込みをしてるから、その気になったら、お話よ」

ユーさんは、少しは気持ちも落ち着いて、肩の振るえも治まった。ぐっと拳を握り閉め、握った拳を見つめてた。

アタシは奥から顔を出し、おにぎり二個を差し出した。

「これはアタシの夕ご飯。食べておくれよ、ねえユーさん。朝からここにいたのなら、さぞかしお腹も空いたろう。アタシは何か食べるから、とにかくお食べよ、お食べなさい。少しは元気が出るかもよ」

ユーさんは黙ってコクリと頷いて、握り飯を手に取って、一口齧って呑み込んだ。

「旨い、旨いよ。ありがとう」

「そうかい、良かった。お食べなさい」

ユーさんは、少し元気を取り戻し、おにぎり一個を平らげた。そうして、ふうーっと長い息。腹の底から吐き出した。

「忙しいのに、ねえママさん。ビールを一本くれないか…」

「あああ、ごめんよ。気が利かず」

泡が溢れるコップ酒。ユーさんは一気にビールを飲み干して、カウンターに空コップ。

「さあさあ一杯、もう一杯」

アタシはビールを注ぎました。

ユーさんの両目に溢れる真珠の涙。頬を一筋流れる涙。流した涙はコップに落ちて泡となって砕け散る。

六十過ぎた男の涙。どんなに辛いことなのか? アタシは黙って見つめるだけで、ユーさんも、黙ってコップを握るだけ。

「惚れた女が死んだのさ」

ユーさんは、ボソッと呟いた。

アタシは仕込みの手を止めて、エプロン摘まんで手を拭いた。

「惚れた女と言ったのかい? 惚れた女がいたなんて、あんたとアタシの付き合いは、三十年にもなるけれど、そんな話は初耳だ」

「ああ、そうだな、そうだよな。誰にも話したことはない。惚れた女と言ってもさ、バカな男の話だからさ…」

「六十過ぎて独り身で、アタシはてっきりユーさんが、女嫌いと思ってた。いやいや、週に四日は通って来るし、もしかしたら、アタシにほの字…。あら、いやだ。私ったらなんてことを言うんだろ。冗談ですよ、は冗談よ」

「ママにほの字じゃ、どんなに楽か。そうじゃないから辛いのさ。男ってのはバカだよな」

「どんな話か知らないが、話してごらんよ、聞いたげる。聞いて一緒に泣いたげる」

アタシは聞かずにいられない。ビールを飲んでユーさんは、ポツリポツリと話し出す。

 

「オレとあいつが会ったのは、小学校の三年生。あいつの名前は笹山六子(むつこ)。六月六日が誕生日。だから、みんなはロクちゃんと、あいつのことを呼んでいた。出会いというには幼すぎ。三年生から四年間、六年生まで同級生。何処にでもある同級生。こんなことになるなんて、あの頃予想もしなかった。ただ違うのは四年間、あいつとオレはリレーの選手。運動会の花形だった。運動会が近づくと、毎日放課後リレーの稽古。あいつはいつもスターター。オレはいつもアンカーさ。今では想像できないが、あの頃オレは細かった。ロクちゃんの、スタートダッシュは素晴らしく、走る姿が美しい。足はまっすぐ前に伸び、背筋を伸ばして風を切る。短い髪に鉢巻き巻いて、大体一位でバトンを渡す。抜きつ抜かれつバトンが渡り、オレにバトンが渡るのは、一位か二位が多かった。二位でバトンが来た時は、ここぞとばかり張り切った」

「二位がどうしていいんだい」

「アンカーが走る距離は、半周長い。ここで抜いたら、いい気分。観覧席は盛り上がり、たちまちクラスのヒーローさ」

「おや、そうかいユーさんは、運動会の花形かい。今じゃそうは見えないが、そんな時もあったのかい?」

「四年生か五年生。あいつがオレに言ったのさ。私もアンカーやりたいわ。それで、オレがスターター。結果はどうだか忘れたが、あいつはオレに言ったのさ。私はやっぱりスターター。バトンが来るまで緊張するわ。オレもあいつに言ったのさ。スターターはこりごりだ。ピストル鳴るまでドキドキするわ」

「いいねえ、ユーさん、いい思い出だ」

「そうだよ、ママさん、いい思い出だ」

アタシはビールを注ぎました。

「その頃は、好きも嫌いもなかったさ。ただ走るのが早い女子、早い男子というだけさ。ただそれだけのことだった」

「そりゃあそうだよ、当たり前。好きも嫌いもあったなら、とんだオマセな小学生。それからどうにかなったのかい?」

「どうにもならんよ。それだけさ」

「それがどうして、こうなった」

「小学校を卒業し、中学校は別々さ。そこで終わればそれだけだった。リレーのことも、忘れただろう」

「それじゃあ、どこかで再会かい?」

「ああ、そうだよ。再会したさ、高校生になってから…。一年生では気付かなかった。一クラスには五十人。団塊世代のことだから、そいつが全部で八クラス。一人一人は覚えちゃいない。それが二年でクラス替え。同級生になったのさ」

「そうかい。それが二人の再会かい?」

「再会と言えば言えるがその時は、ただ同級生になっただけ。もう一人、同級生になったヤツ。小学校の同級生、星場雅夫という男。中学校は同じだが、同級生にはなってない。その星場というヤツが、オレとあいつを覚えてた。そいつが、みんなに言いふらす。

ロクちゃんと柚木満夫は大スター。小学校の運動会、リレーの選手で大スター。二人は仲が良かったと、あることないこと言いふらす。

みんなは、ワイワイ囃し立て、オレとあいつを冷やかした。オレは困って俯くだけさ。

確かに仲は良かったさ。だけど、あいつはその時言った。オレを指差しこう言った。柚木君、私のことをクロコと言った。そんなことは覚えちゃいない。あいつは本気で怒ってた」

「それは、悪いことを言ったわね。ユーさんは、男だから無理もない。小学生の子どもでも、そういうことは覚えているよ。女はね」

「いやいや、だけど、ねえママさん、オレに悪気は全くないよ。覚えちゃいないことだもの。だけどホントに黒かった。あの頃は、外で遊んで真っ黒け。子どもは、それが当たり前。だから、多分、見たまま言ったと思う。ロクコとクロコの駄洒落のつもり。そうだったかもしれないさ。あの頃の、オレは駄洒落に凝っていた」

「それでも。クロコは傷つくよ」

「そんなもんかね。ねえ、ママさん」

「それはそうだよ、ねえ、ユーさん。たとえ小さな子どもでも、やっぱり女は女だよ…」

「そんなもんかい、女ってやつは…。オレにとっては、その時は、そこまで深く考える、そんな歳ではなかったさ」

「それはそうかもしれないけれど、それはとんだ失言だったわね」

「それからあいつは、オレを避けては知らん顔。そんなことをされてるうちに、オレはあいつを意識しだした。もうその頃は、そんなに日にも焼けてない。よく見りゃ、なんだかいい女。気のせいか、あいつもオレをチラチラ見てる。そんな気がしていただけさ…」

ユーさんは、溜息ついてビールを飲んだ。アタシはすぐにビールを注いだ。

「あ~らそうかい、ねえユーさん。それで二人はお付き合いってことになったのかい?」

「いやいや、ママさん面目ない。何にもなくて卒業さ」

「なんだい、ユーさん。それで惚れた腫れたもないもんだ」

アタシは奥へ引っ込んで、キュウリの漬物持ってきた。

「これでもお食べよ、ねえ、ユーさん。いつになったら惚れた話のなるんだい」

「そんなに急に言われても、今順番に話すから、黙って聞いてくれないか…」

「ああそうだね。ゴメンなさい」

「高校出てから一年後、あいつがオレに電話をくれた。ねえ柚木君、今度の日曜空いている?」

「おや? 何かあったのかい?」

「もしも、空いているのなら、私と会ってと言うあいつ。どうかしたかと聞いたなら、何かなければいけないの? あいつがオレに聞き返す。いやいや、別にいいけれど…、ってことで会ったのさ。喫茶店で会ったのさ」

「いよいよ、恋の花が咲く」

アタシは手を止め、身を乗り出した。

「いやいや、そんな話じゃないよ。とりとめのない話。ただ何となく懐かしく、オレと話がしたかった。職場での、女同士のいざこざや、嫌な上司の話など…。あいつは一人で話をするさ。オレは黙って聞くばかり。それでもあいつは、上機嫌。また、会ってと言うあいつ。それから時々会うように…。オレは話を聞くばかり。恋の花など咲きゃしない」

「なんだいユーさん、じれったい」

「ある時あいつが、ポツリと言った。結婚するのと言うあいつ。叔母が紹介した相手。好きな人はいるのかと、聞かれていないと答えたら、いつの間にやらこうなった。なんでわざわざオレに言う。女心はわからない。結婚式に招待された。披露宴、白無垢姿を見たオレは、なんだか知らずに涙が出そう。ホントに綺麗な花嫁だった。宴が終わって、客たちを、ドレス姿で見送るあいつ。綺麗だったと言ったなら、あいつはオレの耳元で、小さな声で『バカ…』と言った」

アタシは聞いて溜息もらす。

「バカだねユーさん、それはさあ…」

「ああ、そうだよ、バカだった。分かっったんだよ、『バカ…』の意味。大事なバトンを落とした気分。気が付いたのが遅すぎた。あいつは既に西郷六子。気が付いたのが最後だなんて、洒落にもならんよ、バカだろう。その『バカ…』が、小魚の小骨のように刺さってる。ずっと胸に刺さってる…」

「ほんとだねえ。洒落にもならんね、バカだねえ。さあさ、お飲みよ、お飲みなさい」

アタシは、グラスにビールを注いだ。

「あいつの旦那は転勤族で、道内各地を転々と…。そして今では札幌に、家を構えて住んでいる。だけど、住所は知らないままさ」

「そうかい、会いに行ける仲じゃない。それじゃ彼女とは、随分会っていないのかい?」

「六十過ぎてオレたちは、毎年お盆にクラス会。あいつの父は亡くなって、今では母親一人住まい。だから、あいつはお盆に帰る。年に一度は会えるのさ。ある時、クラス会であいつが言った。柚木君はこう見えて、昔は結構カッコがよくて、色は白くて背が高い。頭が良くて運動できる。クラスの女子には人気があった。過去形なのかとツッコむと、過去形だから言えるじゃないの…と言うあいつ」

「それもなんだか切ないね」

「そして、今朝の新聞さ。ふと目についた全道版のお悔やみ欄。あいつの名前が載っていた。西郷六子と載っていた。落としたバトンは、もう拾えない。あいつは遠くで死んだのさ。それで朝から気分が滅入る。惚れた女が死んだのさ。今しみじみとそう思う」

「それはホントにその人なのかい?」

「西郷六子、そうある名前じゃないからさ」

アタシは、天井見上げて言葉を探す。ユーさんは、言葉を落として下を向く。

 

その時、バタンとドアが開く。

「オハヨー、ママちゃん。今日も暑いよ、ビールが売れる」

入ってきたのはマドカちゃん。茶髪でロン毛の可愛い子。アタシのお店の看板娘。

「あ~ら、ユーさん、もう来ていたの?」

色が白くて背が高い。大きな声で、よく笑う。おっちょこちょいが玉に瑕。

「どうしたのよ、二人とも。お通夜みたいな顔をして…。あっ! もしかして、ママとユーさん怪しい仲なの? そうなんだ」

高校時代はスケート選手のマドカちゃん。今じゃ、話が滑ってる。

「違う、違うよ、マドカちゃん。困っているよ、ユーさんが…」

「実は、そうだよ、マドカちゃん。今、ママさんにプロポーズ。ところが残念お断り」

「およしよ、ユーさん、よしとくれ。この子に冗談通じない。本気にしたらどうするの」

とか何とか言ってると、ブルルブルルと着信音。携帯持ったユーさんが、青い顔して画面を見てる。

「あれ? あいつから着信だ。なんで電話が来るんだよ。幽霊からの電話だよ」

ユーさんは、アタシを見つめて、困り顔。

「出てごらんなさいよ。ねえ、ユーさん。幽霊なんかいやしない。お盆にゃちょいと早すぎる。ご親戚かもしれないよ」

「幽霊って何よ? 一体何の話なの…」

マドカは意味が分からない。

「はい…、もしもし柚木です」

ユーさんは、恐る恐る小声で返事。

「…、え、何だよ! ロクちゃんなのか? 死んだんじゃなかったの? …。ああそうかい、オレはまた、てっきりロクちゃんが…。…。ああそうだったのか、良かったよ。それじゃあ今年も来るんだね。クラス会で会えるよね。待っているよ、楽しみに…」

「なんだい、ユーさん。どうなってるの?」

あっけにとられて、アタシは聞いた。

「イヤハヤ、とんだ大違い。同姓同名別人だった。自分も今朝は驚いた。どうして私が死んでるの? 住所を知らない柚木君。きっと私が死んだと思い、心配してると電話をくれた。やっぱりそうだったんだ、柚木君。私はあんなに歳ではないわ。亡くなったのは九十歳のお婆さん。オレたちだって決して若いと言えないが、あいつはゲラゲラ大笑い」

 

アタシは酒場の聞き女。どんな話も聞いてやる。聞いて笑って泣いてやる。

したっけ。

 

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