年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市 明治編2

2006年05月16日 | べったら市
明治の暦の改変と祭り及び市の開催
世田谷ボロ市
世田谷近郷の農村の農耕具・古着市・正月用品として毎年十二月十五日に開かれる歳の市としてボロ市は400年以上の長い歴史があります。明治の世になって新暦が使われてから正月十五日にも開かれ、やがて十二月十五、十六の両日、正月にも十五、十六日の両日開かれるようになり現在に至っています。『ボロ市の歴史』(世田谷区立郷土資料館)によると、臨時に明治5年11月25日に繰り上げて開かれたというが、さっぱり商売にならなかったらしい。明治の作家、徳冨蘆花は明治40年に世田谷に居を定め、『みみずのたはこと』の中でボロ市のことを書いている。
 「都近い此辺の村では、陽暦・陰暦を折衷して一月おくれで年中行事をやる。大陽暦正月は、村役場・小学校。2月には村人の(大陰暦)正月だ。松立てぬ家はあるとも、着物更えてのどかに遊ばぬ人は無い」
 ボロ市が年2回の催行になったのは明治7年からで、やはり太陽暦採用が関係しているようである。更に、15日だけの開催が明治20年代になると16日も市を立て売り残り販売していた。ボロ市で販売されていた商品も江戸時代は世田谷近郷の農家のための農具・正月用品だった。明治20年代に入ると東京市民の古着(ボロ)が増えた。明治の末頃になり衣類が安くなると、むしろ(大根を沢庵製造用に干すための)目立つようになった。関東大震災以後、世田谷が都市化すると農具市・ボロ市(古着)の性格が変わりサラリーマン向けの商品(植木・日用品・骨董・古道具・雑貨)に変わって行った。世田谷区祖師ヶ谷大蔵は漬物用に向いている大蔵大根の産地であった。
 ここまで書いていると何か気になる事がある。べったら市の大伝馬町は衣類の問屋街の隣で当然・江戸時代から古着も扱っていた。ボロ市とベッタラ市は何か関係ありそう。
コメント
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