十方庵敬順という人は江戸時代の文化・文政の頃の人で今で言う定年退職後、名所旧跡を訪ね歩きをしました。
遊暦雑記初編 十方庵敬順
今、大伝馬二丁目の北横丁正一位宝田稲荷大明神と号す。今はたからだを音に呼して宝田(ほうでん)稲荷と号せり。御城(江戸城)築かせ給ふにつき、今の地所へ引(越し)きしめ給ふ。されど往時渺茫 (びょうぼう)として古き稲荷にや、他町へ移さず、重き御用を相勤める大伝馬・小伝馬の両町へ引地なさしめ給ふとかや。
遊暦雑記 四編 中 第八
東武伝馬町恵比寿市というは、毎年正月19日、10月19日なり。その日天気よければ、朝より始まり、夜 子の刻に至りて終わる。 途中略
日本橋本船町、安針町、小田原町等の魚問屋とも肴おびただしく持て余したるを、各々申し合わせ伝馬町へ打ち出だし、相手次第に物売したのが例となり、毎年正月、10月市となった。ただし、その頃まではまだ生肴のみだったので、悪口に伝馬町の腐れ市(くされいち)又は なくれ市とも呼ばれ、今は生物・干し魚・塩魚は云うに及ばず更に縁起物の恵比寿大黒(像)を始め、古着・古道具・小間物・瀬戸物・植木の類に至るまでよろず無き物は無く、夜に至りて益々鮮魚安く、これを買いに来る人がおびただしい。干し魚・塩魚も同様に安くなる。(一日だけの市なので夜は投売りとなるので、これを目当てに人が出る)
伝馬町の正月10日の夷市は、わずか一昼夜といえどもヨロズ無きものが無く、人の山をなして集い競うはさすが東武の真中である。
恵比寿市は江戸時代の日本橋魚河岸の投げ物(見切り品)の売場だった。特に恵比寿様の鯛は掛鯛と共に重要な商品であった。
掛鯛とは二尾の塩鯛をわら縄で結び合わせて飾る。
文化・文政の頃の頃はまだ,浅漬大根は売られていないか記述は無い。
なくれ市とは”なぐれる・売れ残った品”ということか。明治東京風俗語事典 正岡容著より
遊暦雑記初編 十方庵敬順
今、大伝馬二丁目の北横丁正一位宝田稲荷大明神と号す。今はたからだを音に呼して宝田(ほうでん)稲荷と号せり。御城(江戸城)築かせ給ふにつき、今の地所へ引(越し)きしめ給ふ。されど往時渺茫 (びょうぼう)として古き稲荷にや、他町へ移さず、重き御用を相勤める大伝馬・小伝馬の両町へ引地なさしめ給ふとかや。
遊暦雑記 四編 中 第八
東武伝馬町恵比寿市というは、毎年正月19日、10月19日なり。その日天気よければ、朝より始まり、夜 子の刻に至りて終わる。 途中略
日本橋本船町、安針町、小田原町等の魚問屋とも肴おびただしく持て余したるを、各々申し合わせ伝馬町へ打ち出だし、相手次第に物売したのが例となり、毎年正月、10月市となった。ただし、その頃まではまだ生肴のみだったので、悪口に伝馬町の腐れ市(くされいち)又は なくれ市とも呼ばれ、今は生物・干し魚・塩魚は云うに及ばず更に縁起物の恵比寿大黒(像)を始め、古着・古道具・小間物・瀬戸物・植木の類に至るまでよろず無き物は無く、夜に至りて益々鮮魚安く、これを買いに来る人がおびただしい。干し魚・塩魚も同様に安くなる。(一日だけの市なので夜は投売りとなるので、これを目当てに人が出る)
伝馬町の正月10日の夷市は、わずか一昼夜といえどもヨロズ無きものが無く、人の山をなして集い競うはさすが東武の真中である。
恵比寿市は江戸時代の日本橋魚河岸の投げ物(見切り品)の売場だった。特に恵比寿様の鯛は掛鯛と共に重要な商品であった。
掛鯛とは二尾の塩鯛をわら縄で結び合わせて飾る。
文化・文政の頃の頃はまだ,浅漬大根は売られていないか記述は無い。
なくれ市とは”なぐれる・売れ残った品”ということか。明治東京風俗語事典 正岡容著より