年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市の物語10

2006年05月12日 | べったら市
天保以前(1830年以前)の日本橋魚河岸の盛況
十月は恵比寿講で大小の鯛が非常に良く売れるし、また、各地からこの市目当てに魚が入荷するので魚河岸が繁盛していた。また、日本橋魚河岸の若者が内職で十月の始め頃から尾ひれを綺麗にそろえて本物の鯛に赤い糸で飾りつけて、恵比寿講の市を開いている大伝馬町に持ち出して販売していた。
また、十月の末頃に秋刀魚(さんま)と鰮(いわし)が来る。海から離れた北関東や信州の地方から注文が殺到し、塩漬された秋刀魚・鰮が魚河岸を賑やかにしていた。魚河岸は冬に向かって生魚の管理が楽になり良く売れるので勢いが出てくるのだった。そういう意味で恵比寿講は年末商戦を占う機会であった。
 天保12年(1841)の天保改革、水野忠邦の緊縮経済政策は魚河岸の繁栄を終息させた。たった2年で天保の改革は頓挫したが、魚河岸は以前の盛況を回復しなかった。そして、江戸時代を終わらせる黒船が日本に来た。
 嘉永6年(1853年)ぺリー浦賀に来る。
日本橋魚河岸は変化が緩慢であったが、幕末から明治初めにかけて、日本橋本町、大伝馬町は変わっていった。横浜の開港と諸外国との交易・物価上昇・不平等条約によって、低関税で入る輸入品と競合する割高な日本商品は売れなくなった。特に砂糖は影響を受けた。
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