高崎正風って
谷干城(西南戦争の熊本篭城指揮者)と大槻文雄(国語辞書言海の著者)の関係から、高崎正風という人が出てきた。薩摩人であった高崎は維新後、岩倉使節団の一員として欧米をめぐったが帰国後冷遇されていて、宮廷歌人として御歌所初代所長となった。明治14年政変時以後、『中正党』という組織との関係で政治に影響を与えようとしたが消えてしまった。どちらかと言えば維新後天皇と中心とした政治にならず、不満となっていた。保守的な考えを持っていて、国会開設後じわじわと影響を与えていた。正岡子規は高崎正風の「古今調」の和歌を批判していたという。
そんな訳で千葉県成田市にある書道美術館での展覧会『御歌所と近代のみやび』を見にゆくこととなった。1888(明治21)年、御歌所が宮内省に置かれた。天皇陛下や皇族の歌の添削等、和歌についての事務を担当した初代所長が高崎正風だった。今でも歌会始めの和歌は筆で書いて提出しないと失格であるという。台東区根岸に中村不折旧宅の台東区立書道美術館がある。子規庵とはいくらも離れていない。それで行ったのだが500円の拝観料は和歌や書の知識なく取り戻せなかった。高崎正風は明治23年の公布された教育勅語の実践運動、紀元節の歌の作者として知られている。
明治24年言海出版記念の会合(主唱者・谷干城・富田鉄之助・高崎正風)は様々な思惑のある人達が今の東京タワーのあった所の紅葉館に集まったこととなる。
谷干城(西南戦争の熊本篭城指揮者)と大槻文雄(国語辞書言海の著者)の関係から、高崎正風という人が出てきた。薩摩人であった高崎は維新後、岩倉使節団の一員として欧米をめぐったが帰国後冷遇されていて、宮廷歌人として御歌所初代所長となった。明治14年政変時以後、『中正党』という組織との関係で政治に影響を与えようとしたが消えてしまった。どちらかと言えば維新後天皇と中心とした政治にならず、不満となっていた。保守的な考えを持っていて、国会開設後じわじわと影響を与えていた。正岡子規は高崎正風の「古今調」の和歌を批判していたという。
そんな訳で千葉県成田市にある書道美術館での展覧会『御歌所と近代のみやび』を見にゆくこととなった。1888(明治21)年、御歌所が宮内省に置かれた。天皇陛下や皇族の歌の添削等、和歌についての事務を担当した初代所長が高崎正風だった。今でも歌会始めの和歌は筆で書いて提出しないと失格であるという。台東区根岸に中村不折旧宅の台東区立書道美術館がある。子規庵とはいくらも離れていない。それで行ったのだが500円の拝観料は和歌や書の知識なく取り戻せなかった。高崎正風は明治23年の公布された教育勅語の実践運動、紀元節の歌の作者として知られている。
明治24年言海出版記念の会合(主唱者・谷干城・富田鉄之助・高崎正風)は様々な思惑のある人達が今の東京タワーのあった所の紅葉館に集まったこととなる。