福神漬の語り部ともいえる鶯亭金升は明治元年生まれである。彼が団団珍聞の投書が載り始めたのは明治16年頃からである。団団珍聞には竹葉亭昌安、驥尾団子には総多楼昌安という名前で投書文等が掲載されている。16歳の少年とも言える人物が度々、この当時の人気雑誌に掲載されている。資料によると明治13年の最盛期に団団珍聞と驥尾団子の発行部数は34万部を超えていたという。才能のある投書少年だか簡単に団団社に入社できたのだろうか。別の要素があったと思うのが一般に想定される。つまりコネ入社ということになる。しかし、明治6年には父である元幕臣長井昌言が工部省鉄道局の地位で死去し、根岸に母と生活していた少年にどんなコネがあったのだろうか。
明治17年8月には団団珍聞に入社し、19年には社主野村文夫と共に紀州・関西旅行をしている。しかし新聞『日本』が団団珍聞の隣(神田雉子町)に発足した時(明治21年末頃)団団社の経営状態は厳しく、野村に対しての元芸州藩主浅野長勲の資金援助だったという。
明治17年8月には団団珍聞に入社し、19年には社主野村文夫と共に紀州・関西旅行をしている。しかし新聞『日本』が団団珍聞の隣(神田雉子町)に発足した時(明治21年末頃)団団社の経営状態は厳しく、野村に対しての元芸州藩主浅野長勲の資金援助だったという。