年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

東スポの前身と言われる『やまと新聞社』

2013年04月25日 | 福神漬
やまと新聞社が京橋三十間堀にあったころ
鶯亭金升の『明治のおもかげ』を読んでいたら、『やまと新聞』というのがあった。この新聞は明治19年に創刊された『小新聞』で警察ネタを取り上げていた新聞を継承したもので市井の記事や花柳界の記事を扱っていた。
 三面記事といわれる社会で起きた事件を面白おかしく書いた記事で新聞読者の興味をそそるように書いていた。このやまと新聞の精神が今でも『東京スポーツ』という夕刊紙に引き継がれていることは興味深い。やまと新聞の編集局では条野採菊、岡本綺堂、榎本破笠、長井金升の四人、別室には福地源一郎が主筆して記事を書いていたという。
条野採菊は日本初の日刊紙『東京日日新聞』の創刊者の一人であり、後に歌舞伎との関係は深い。つまりやまと新聞の三面記者は歌舞伎記者ともいえる。
 榎本破笠は榎本 虎彦でもあり、一時、歌舞伎座の立作者(脚本家)でもあった。
1887年(明治20年)、21歳のときに文学を志して和歌山から上京し福地源一郎(福地桜痴)の書生となったという。この時、池之端御前といわれた桜痴の貸家と思われるが同じ敷地内に新婚の鶯亭金升が住んでいた。
 岡本綺堂は半七捕物帳とか明治期歌舞伎の貴重な資料となっている『ランプの下にて』の著者として知られている。従って全てはやまと新聞の事件記者は歌舞伎と関係していた。福神漬の創製者酒悦と歌舞伎との関係はどこから始まるのだろうか。
コメント
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