御仕置例類集 第7冊続類集 1
江戸時代大名の領地は全国の四分の三ほどあったが法律を幕府法にならわせる方針を採ったため次第に大名の藩法が次第に幕府法化してきた。その幕府の最高裁判所とも言うべき評定所へ自らの判決限度を越えた刑事事件を老中に伺いたてなければならなかった。伺いを受けた老中は事案を審査し、問題のないものはそのまま承認する。疑問のあるものは評定所に諮問し評議し老中に答申し承認を得ることになっていた。この評定所に於ける仕置きの評議を分類編集したものが御仕置例類集(おしおきるいれいしゅう)である。
続類集には火付盗賊改長井五右衛門伺が頻繁に出てくる。火付盗賊改とは江戸幕府の役職の中で戦時になると将軍の軍隊の先鋒を勤めることになっていた「先手組」という役職がありました。「先手組」は、さらに携行する武器によって「弓組」(約10組)と「鉄砲組」(約20組)に分かれていました。この「先手組」のトップを「先手弓頭」・「先手鉄砲頭」といい、その中から特に選ばれた者が「加役」という形で兼務して勤めたのが「盗賊改」「火付改」「博徒改」といった役職です。「改(あらため)」というのは、取調べのことです。
鶯亭金升は三代キシャといっていましたが記者、汽車そして先手弓頭を意味するキシャ(騎射)を意味したと思われます。長井家の石高は1500石ほどで先手組の石高とほぼ一致します。この続類集には同時に(南)町奉行の筒井伊賀守伺も多い。
戸田主膳殺人事件に出てくる長井五右衛門は元火付け盗賊改めであった。従って藤岡屋日記にも天保雑記にも記述されてもおかしくはなかった。武家屋敷に押し入った中里新十郎を捜査するのは火付け盗賊改めではないのだろうか。
文政の頃火付盗賊改が長井五右衛門昌純で南町奉行が筒井伊賀守政憲だった。この二人の評定所への伺いが多く、事例として記録が残っている。天保7年7月の戸田主膳殺害事件当時南町奉行は筒井政憲で火付盗賊改は朽木弥五左衛門寿綱だった。
筒井が安政3年に死去した長井昌純の家が絶えようとしたとき、過去の付き合いから筒井が戸田主膳の孫を養子として長井家に世話したようだ。